■敵地攻撃論とダブルスタンダード[雑談]

敵地攻撃兵器で北朝鮮(もしくは中国・韓国)を抑制するという論理は、そのまま北朝鮮の外交主張と一致する。


何より、数日前までイスラエルにおいては両者に対話を促していたはずではなかったのだろうか?


ま、私が何を言ってもどうなるものでもないが、これではあまりにエスノセントリズムに過ぎるのではないだろうかと思う。


堅い話題はこれくらいにしようか、私が堅い話題に熱心でないというわけでないが。




今日の雑談、貴方はどれだけ残酷な物語を想像できるか?


これは物語を作成する人間において必然的に求められるスキルである。


今ひとつどういうことかわからないかもしれないが、これから物語を製作しようかと志望している方には是非、
すこしばかり考えてみて欲しい話題である。


何故残酷な物語が必要なのか?
物語とは光と影をその主要構成要素として内包していると考えてみれば少し見えてくる。
まあ単純に光と影が補正関係にあるというわけではないのだが、影というものが物語に内包されていなければ物語の必然性が失われてしまう。


例えば、ドラえもんにおける影の部分はいうまでもないがノビタに対する理不尽なイジメである。


技法的な側面から言えば、ノビタに対するジャイアンやスネオやママのイジメが陰険で理不尽であればあるほど光であるドラえもんがその行動原理を勝ち取るということである。
これは悪役の悪の濃度というわけでなく、影のストーリーを内包させるという意味である。
ドラえもんのいないノビタの一生という影を背負うことによって、ドラえもんは成立している。
それ故に、ノビタに対するイジメが薄くなっていくごとにドラえもん自体が徐々に希薄になってしまっている。


心理的な側面で言えば、読み手は図らずも作者の技量を的確に読み取る、作者が一定以上残酷な物語を想像できないと判断するとにわかに底が知れてしまう。


影の物語は外側に位置する悪の濃度ではない、あくまで内包されているものだ。ここではバイキンマンの極悪さではなくアンパンマン家に内包される影と捉えて置こう。
こういうのは例えば、「機動戦士ガンダム」におけるせーラさんとアムロの肉体関係に見ることも可能だ。


残酷でない、常人以上に残酷になりきれない物語は全体的に希薄になる。
具体的な作品名を挙げようか?


「ブラックキャット」「ゲットバッカーズ」ETC


村上春樹の抱える闇は村上龍がおおっぴらにした光よりも濃かった。
女のシャブ漬けには成功したが、生きたまま皮を剥がなかった、それが敗因、それが限界。


そして、笑いである。
どんなコメディでも笑いは少なからず悪である。
笑いの背後には必ず差別が存在する、弱者に対する侮蔑がある。
どれだけ残酷に弱者を笑えるか?どれだけ、自分よりも弱いもの、愚かなものを侮辱できるか?


これから文章を書こうと考えている方は、自身にそういう残酷さを持っているかどうかと考えてみるといい。
物語を書こうか、とか考える人間は多かれ少なかれそういう要素を保持していると思うが、それでも考えてみることをお勧めする。
これはどのようなジャンルの物語にも必要とされる要素だからだ。


私は自問する、ドラえもんのいないノビタの一生より残酷な物語を想像できるだろうか?