まあ馬鹿馬鹿しいからスルーしてね

世の中に正義というのは沢山あって、自分に都合がいい解釈とそうでない解釈がある。
そんなこと当たり前、とおっしゃるかもしれない。まあ、お話はそこではない。


まず、違法ダウンロードの話・本当に何度も触れられているし、いろんなところで言われているが。


・「アニメ制作には中抜き(中間搾取)が入っているからおかしい、違法ダウンロードは正当化される。」そんな理屈はどこにも無い、考えてみよう、不正を犯した会社から金を盗んでも当たり前に犯罪。


・「アニメ制作資金回収形態が不自然だ、だから違法ダウンロードは正当化される。」そんな理屈はどこにも無い、考えてみよう、自分が納得いかない利益を上げている店舗(例えばパチンコとか)から金を盗んだらどうなるか。



・「アニメのDVDは高すぎる!だから違法ダウンロードは正当化される。」そんな理屈は以下略、商品が高いから盗るってのはどうよ?


・「アニメはネットで無料で見ることができる時代に突入しているので違法ダウンロードは正当化される。」そんなry、これもまったくもってよくわからない話である、俺理論のバックボーンが時代とか昔の赤軍派みたいだ。


・「最近のアニメはつまらない!買う価値が無い!だから違法ダウンロードは正当化される。」意味不明、自分にとって必要の無いものは盗んで当然?矛盾しているし、犯罪者であることに変わりは無い。


・「盗まれてもいいといっている奴もいる、だから違法ダウンロードは正当化される。」子供でもわかりそうなものだが、その理屈で物を盗めば普通に犯罪者です。


・「盗んでみて、いい出来だと思ったら買うこともある、だから違法ダウンロードは正当化される。」自分で書いていておかしいと思わないのだろうか?


・「権利者が横暴、だから違法ダウンロードは正当化される。」ダメです、復讐殺人でさえ全く正当化されないのだ、気持ちはわかるが犯罪は犯罪。


・「ネット配信されればお金払うのに権利者が怠慢だからやってくれない、だから違法ダウンロードは正当化される。」自分の家の前にコンビニが無いから遠くのコンビニから盗って来る理論、立派な犯罪。


・「いっぱい盗まれるってのはいい宣伝じゃないか。」いい加減自分のいっていることがおかしいと思わないのだろうか?犯罪。


・「おおっぴらに盗むのはよくない、こっそり盗めばいい」まあ、なんというか自覚がある分ダメダメ感がさらに増しているw。


上記の理屈、解釈はネットではごく普通に見られる意見である。
意地悪く書いているが、物を盗むという行為が違法ダウンロード行為と同意であるという前提であるならこうなる。
もし、論点があるとすれば「違法にダウンロードはしているが物を盗んでいるわけではない」という点しかない、しかし、それも原状では難しいだろう。


人間は自分に都合のいい解釈、理屈付けをしがちである、時にはそれが傍目には無茶苦茶な理論になるが本人には自覚は難しいものである。


ちょっと前だが、朝日がサルに餌付けしたとかで盛り上がった人は今もってアサヒの「圧力」とか「潰された」などとなんの根拠も無く平然と書いていたのだが、それが「アサヒる」という単語と同意の行動をしているとはなかなか気づかないのである。まったくもってややこしいものだ。

橋本知事誕生にあいまって

橋本徹弁護士が大阪府知事になった、予想されていたことだし今回の選挙戦自体に特別な感想は無いが。


ここらで少しばかり大阪の実情というか、私が感じる大阪を少し書いてみようかと思う、かといって部落開放同盟やら在日利権についた詳しく知っているわけでもないし、政治的な話は他の人に任せよう。

  • 大阪人はがめついとか、怖いとかマナーが悪いとか言われる、確かにそうだろうと私も思う。

が、これは大阪に生まれたからがめつい遺伝子を持っているとか、そういうことでは決してなくて、単純にまじめにやると損するシステムのせいではないのか。
例えば、大阪の町で目に付くのが放置自転車である、大阪の放置自転車の酷さは来てみればわかるが尋常ではない。
大阪から放置自転車がなぜなくならないかといえばそれは単純に放置していても滅多に撤去されないからである、こういうと単純だが話は多分単純だ、要するに市営の駐輪場に停めて200円なりを払うのと駅前の路地に放置するのと比べると放置する方が得なのだ。こういうことが大阪には往々にしてある、何でも不真面目にやる方が得でまじめにやる人間が損をするという環境ではマナーは悪くなる一方であると思われる。


  • 大阪は治安が悪いとよく言われる、確かにそうだろうとも思う。

が、大阪に生まれたから乱暴だとか無法者だとかそうではなくて、単純に無法を行ってもつかまらないからではないかと思う。
例えば、大阪にはスラムがある、と言えば、府職員は目を伏せるか咳払いするだろうが、ある。
私が大阪にスラムがあると断言する理由はこっちを読んでくれれば感覚ぐらいはわかるかもしれない。
実際に足を運んでみないとわからないとも思うが。
恐らくこれらのスラム一角は警察がうかつに手を出せない地域なのではないか?でなければ○○なアンテナとかそういうのが存在する理由がわからない。
さらに、暴力団。大阪では暴力団事務所が暴力団事務所だと子供にも理解できる形で存在する、誰が見ても組事務所、こちらにも用心棒が四六時中いて刀を飾ってあるのが窓越しに見えたりする、私は東京には詳しくないがこういうのって普通なのだろうか?
まあ、地下に潜った暴力団の方が怖いというが、組事務所のがあんだけおおっぴらに存在する状況で万引きをした少年にどのように更正を促すというのだろうか?

  • 私が言いたいのは、大阪というのが未だ法治ではなく人治の世界であるということだ。

ハンナンの事件を見ていてもそう思う、時代遅れもはなはだしい。
実際、許永中やら末野興産とかああいう出来事が起きた原因は徳というか胆力の世界が根底にあったからだろう。そして東京はバブル後、人治を法治とすることを選び、大阪は未だ戦後を続けているのではないか。(東京には詳しくないので誤っていれば済まない。)


確かに徳の世界にも素晴らしい面はあるし、大阪には人治ゆえの人の暖かさがある、しかし、全面的に事態が悪化する一方である今の大阪において人徳が何かの役に立つとは思わない。
せいぜいみんなで沈んでいくその程度ではないのだろうか?大阪の平均所得の減少は笑えるほど激しいのだ。
何か我々はモラル回復等の言葉によって「仁義」や「人徳」の世界を熱望しているように見えるが、モラルを回復しうる唯一の手段は、只法で自らを縛るしかないのではないかとすら思う。

法が神から与えられた果物ではなく、人が運用するものというのは百も承知だが。

HTML5についてよくわからんからよくわからんと書く

こちらでhtmlが5になるよといってますが。


いや私はど素人なのでさっぱりですのでよくわかりませんので「よくわからない」とまず書いておきます。


えーとずいぶん削られる要素が多いようですが、なくなっちゃう要素でhomepageを作っている場合どうなるのでしょう?
例えばtableに関連するタグが結構無くなってますが、alignとかcenterとか使ってる素人のサイトって多いと思うんですよ。


ほかにもframeなんかもろだけど、こういうのを使ってるサイトはどうなってしまうの?
ある日突然表示がおかしくなったりするんでしょうか?

今のieもバージョンによってcssの表示がおかしかったりするんですけどそんな感じに平行して二つのhtmlが使われるのでしょうか?


いや、大企業はいいですよ、メンテナンスもあるだろうしややこしいことは外注すればいいんだろうと思います、けどそんなにお金が無い、かける必要性がない中小企業や個人のダサいサイトなんかはどうなるんでしょうか?


もちろんxhtmlcssで書けば(書ければ)問題ないわけですけど、いや、情報格差といいますか知らない人は知らないだろうと思うんですよ、で実際新しいパソコン買ったりしたら困ると思うんですよね、ある日突然、かなり昔にhomepage作ったりした顧客さんから「うちのホームページがおかしい、おい、どうなってんだ」ってなりませんかね?で「htmlが変わりまして」とか説明するの大変だと思うのですよ。


知らない人は本当に知らない分野だと思うので。
こういうのって簡単に周知できるよい方法は無いものでしょうかね。


杞憂ですかね、私も知らない人に該当するし、よくわからないし、別段関係は無いのだけれど。

受験制度ってそんなもんか

ネタ元はhttp://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20071226/p1ここから。


私は上記エントリにちょっと違和感がある、確かに学歴が高ければそれが単純に報われるというわけではないのは当然だと思うが。


実際の学力というのが誰でも積立られていくという認識はそうなのかな?と思う。

受験戦争という“ゲーム”は絶妙のゲームバランスで、余程の先天的素養の欠落が無い限りは「努力すれば努力に見合った結果」「努力すればそうでない頭の良い子を上回る結果」が得るチャンスを与えられる。

本当にそうなのだろうか?それは確かにある程度の積立は可能かもしれない、が、実際のところ受験というのはそういう認識で行われているわけではなく、子供を選別し取捨することに意味があると考えているのでないだろうか。


社会において現実的に必要とされることは王になる素質ではなく、兵士になる素質である。
というと、見も蓋もないが、現実的に王ばかりの社会というのは想定されにくく、もっともありうるのは自分や自分の子供が兵士となる現実である。


受験というのは良く出来たもので、あまた生まれる兵士達を管理者、技術者、一般市民、労働者と峻別することを目的としているといえば言い過ぎだろうか?
受験というのは王や革命家を判別するようには出来ていない。


社会では人格はともかくとして目の前の仕事を片付ける能力が保証されなければ仕事は任せられない、出来ないことは出来ないのだ。それこそいくら努力しても無理だというのがある、適材適所とは人事ではよく言われる話だ。
学歴が重宝されるのは努力を問うているのではない、その大学に入学できる学力を問うているのだ、極端な話、遊びほうけて東大に入ったとしても、それは遊んでいても学習する能力があると理解され別段問題にならない。
これを誤解している人が大勢いると思う、自身が努力して勉学したからかもしれないが。
努力→高学歴というのは別段何の保障もされていない、が、高学歴→試験問題を解く程度の理解力・記憶力は確実に保障されている。


で、仕事と学力に何の関係があるか、確かに学力があるからといって何でも出来るというわけではない、しかし、ある能力が必要とされる業務、管理者や一部の技術者の業務は「学」と非常に似通った職務形態をとることが多い。
なにせ人の間の決まりごとはほぼ紙に書いてあるからだ、文字にしても数字にしても。


例えばあなたがなにかの法規的登録を技術者に依頼するとして。
人が良くて無能(憲法って何?)、か、人が悪くて有能(大体暗記してます)かと問われれば、有能な方と答えるのは担当者として当然ではないだろうか。


それが、管理者になれば。
人が良くて有能でなくてはダメだとなるだけである。


で、そういう法律を覚えたり、プログラムを理解したり、監査したり、通訳したりというのは「学」と比較的比例する能力とされているし、私はあながち間違っていないと思う。


で、受験における最も大きな誤解とは、「学力がRPGのように積み上げられていくもの」というところであり。
学力は努力の証であるというよくわからない信仰である。


よく考えて欲しい、毎日走れば幾分か速くなれるだろう。
走ってない人間達よりは確かに少しは速くなる、で、それを積み上げていけば光速を超えるか?
走ってない人間達があなたより遅れて走り始めたとして、その差は練習量だけで変動する?
結局皆走れば足が速い奴が一番になるのではないのか?


走れば走るほど速く走れる、それが「労働者の素質を持つものに管理者に成るべく学力をつけさせようとしてもままならぬ悲惨」を生むのではないのか。


職業に貴賎は無いという建前は当然として、この世の中は労働者であるからすなわち低収入というわけではない(これ意外に重要ね、何故か否定したがる人が大勢いるが。)、技術者であるから高収入かというとぜんぜんそうでもない。


ましてや幸福や生きがいなど論外である。


学力は特定の職業に必要とされる能力であり、その習得にはそれなりの資質が必要である、資質が無ければ諦めろ、といえば差別になるのだろうか。


要は向き不向きをRPG的要素に置き換えることで必死に目をそらしていることが問題じゃないだろうか。
そして、さらに厄介なのは受験はただ兵士を峻別するだけの能力しかないのに、王を生むとか革命家を生むとかそういう馬鹿げた誤解をしているところである。


そして、学力は当然ながら向いていない業種では全く役に立たない。
世の中には只ひたすらに手先の器用さが求められる職種もある。
本当にそれだけの話である。

実はネットは左翼の温床なんじゃないかってこと。

ネットが右傾化といわれて久しいが、実際に右傾化しているのかというとどうなのだろう?

実際「嫌韓」は未だにある程度の支持を集めているし、第二次世界大戦をある程度美化する流れもあると思う。
外国人を排斥しようとか、日本古来のモラルを現代に蘇らせようという流れもある。


だが、だから右傾化といって、本当にそうなのだろうか?


現在のところ右傾化というキーワードはそれなりに的を得てはいると思う、だが本当に右傾化がすなわち右翼化なのか?
というとそうではない、気がする。
右向きの主張に隠された、真の革命思想家が深深とうごめくさまを感じずにはいられない、ネット世論とは結局のところ、階級闘争の主戦場なんじゃないのか?


要するに「権力打倒」という純然たる大義がまずあり、まあ、平和や平等にはこの際目をつぶってもかまわない。
これこそ全くもってまともな左翼革命家、そう、今のひよった共産党ではなく純粋力学な過去の共産党と同じ思考形態をとっているんじゃないだろうか。


ネット世論はビラや火炎瓶や、あるいは粛清であり、構成員は皆名前が無く、故に赤狩りにあうこともまた無い。


誰が言い出したかわからないが、誰もが名前を知ってる大企業は貧民を犠牲にして収益をあげている、そうでなくては収益など上がるはずが無い、大企業の社員の給料が高いのはおかしい、大企業は打倒されなくてはならない、こんな意識がずいぶんと浸透している。


「何が悪いって既存のシステムが悪い」そう言い放つ機会がずいぶんと多くなった。
我々は何を破壊したいのだろうか?


よく右傾化と言われるプチ右翼だって根っこには同じように革命思想が息づいているように思う。
彼らが守ろうとしているのは日本人のモラルという実体のない唯の「言葉」であり、システムではない。
彼らは日本人のモラルを保守するというまるで右翼のように見える言説の基に、現在の日本のシステムは腐敗し堕落しているので外科手術が必要だと主張する、これってはっきりマルクスの亡霊のようである。


たしかに国の概念、国を愛する意識を持っている人間は多いだろう、ネット上でも国を愛する人間が確かに多い、だが、本当に国家を愛しているのだろうか?
国を愛していると言いながら実際は日本国家を解体する方向に進めようとしているのではないだろうか?
そしてそれを国家を愛するが故の行為だと吐いているのではないだろうか?
靖国竹島なんて現実問題日本のシステムに何の関係の無い言説を意気揚々と取り上げておいて、実のところ左翼に牛耳られているとされる日本社会の実働システムを破壊する。
こんな行為がいかにも愛国心の様な言説の基に行われているのではないのだろうか?


靖国竹島が右翼的だと誰が決めたのだろうか?
左翼じゃないのか?左翼のイメージをトレースしながら実際のところ真の左翼の都合の良い隠れ蓑になっているんじゃないのか?


日本を愛しているという意思より、今の腐敗した日本社会は打倒されるべきだという意思の方が大きいのではないだろうか。


韓国嫌いにしても結局のところ嫌いなのは在日利権なのではないだろうか?


そして、技術革新によって進化するネットはすなわち擬似革命、ネットが進化することによってその先には必ず既得権益が打倒される、と信じているよう見えるのは何故だろう?
ネットは本来共有財産であり、理想的な共有財産の成立はネットにおいて成立する、と考えているようにも思う。


また、ネットに深く関わっている人間は、そうでない人間とより先鋭かどうかを比べることを好む、概して前者が正義であるがそれを現実では隠すことを推奨される、その時が来るまでは。


現在の左翼のあまりにもお馬鹿なイメージを疑ったことは無いだろうか?


大学紛争では誰もがマルクスの革命を理解していたわけではない。最先端だから、若者が時代を先取りしているからという曖昧な理由で参加していた若者が大半である。


そして、モラルにしても過去の日本とは明らかに違った幻想が蔓延しているように思う。
たとえば「教育」。
本来のモラルとは子供は大人が守るもので、大人が正しい教育を施すのがあるべきモラルとされていた、だが今は行動が粗暴な子供を社会から排除するモラルにすり変えるられている。

「女性問題」も同じで、弱い女を守る男というのが過去の「日本のモラル」だったはずだ、何故今は女を粛清するというアラブのようなモラルが「日本的なモラル」にすり変わっているのだろうか?


別に昔の日本が特別美しいとは思わないが、今の自称愛国者が主張するモラルの何処をどう取れば失われし「日本のモラル」なのだろうか?日本の過去なんかではなくて全く違う世界を目指していると考えたことは無いのだろうか?


別に私は何が悪いと言いたいわけではない。
だが、愛国や靖国嫌韓を歌っているから、その主張は保守で日本を愛していて日本がより強く豊かになることを望んでいる、というのはまるっきり幻想なのではないのかと言いたいだけだ。
嫌韓靖国を歌いながら実際は左翼革命家の手先になっているという突拍子も無いことだってありうるんじゃないか?
そういう風に自身を省みることだって必要じゃないのか?


晒し、電突、マスコミ叩き、これをどの国が大好きなのか考えたことがあるか?自分の行動の後ろに誰かの笛の音が聞こえやしないか?


・推奨コメント→「なんだってー!!」

幸せについて少しだけ

こういう話題は個人的に好かないのでちょっとだけ。


幸福とは不幸がなければ成り立たない、わけではない。


不幸とは幸福がなければ成り立たない、わけでもない。


勝者と敗者とは話が違う。


心が幸福を求める、心が不幸を嫌う、ゆえに幸福は心の中にある。


幸福や不幸は一般化されるものではない。

なぜラッセンの絵はダメなのか、技術は素直に評価されないのか?

さてさてさて、
またまた続き、ついて来てる人はいるのか?


絵が好きな人は多いけど、絵画が好きな人は少ないからなあ。


今回は絵画における技術的評価という側面からラッセンを語ってみる。


絵を評価しようするときよく言われるのが、技術はすげえってやつである。
センスはよくわからない、目で見てわかるやつもいればわからないやつもいる、だが技術は万人が目で見てわかるつまり、公正な評価の基準足りうる。

ってやつだが、


さて、では技術は絵画の評価の基準になりうるのか?


まあ、結論から言うと、可能ではある、しかし、それはセンスと限りなく近づいていくのだ。



さてさて、
技術といえば「写真のような」というような例えがまず浮かぶだろう、だが、写真のような絵というのはやろうと思えば意外に容易なのである、技術的には写真を拡大し、下絵にする、さらに細かくマスで割ってピクセルを埋めるように一つ一つ細かくマスを丁寧に埋めていけば、まるで実物と見間違うようなリアルな絵が完成する。
スーパーリアリズムで用いらていた手法で、この手法を行えば誰でも、というわけではないが、比較的容易に繊細な絵が完成する、そしてそれは結局写真と変わらない。
だから絵画は意味を失い写真に近づけるというのは評価の対象にならなくなってしまう。


ではデッサン力はどうか?
これがまた難しいのである、絵というのはそもそも2次元の表現である、3次元の物体を上手く見えるように2次元に置き換えるとどうしても誤魔化しが生まれてしまう。
人間の目は二つある、それゆえにものが立体的に見えるのだが、同時に目に映る画像というのは単純に物体そのものではない、そのような状態の画像を素直に二次元に移す作業を行うと画面が歪んでしまう。
技術的に画面を歪ませない、それはつまり、嘘である、嘘はデッサンとは対極に位置する技術である。空間表現とか遠近法とは言い換えれば騙し絵なのだ。
物を追求すると画面が歪み、画面を追及すると物がおざなりになる、純粋なデッサンは画面を歪ませる、歪んだ画面は物からも遠ざかっていく。
人間の目によるデッサン力という基準は公正な評価を期待できない。


では、より人間的にリアルに、人間が見たものを映し出せばどうか。
写真ではなく、物でもなく、人間が見た風景をそのまま表現するとどうなるのか?
こうなってしまうともはや人が基準である、人がリアルに感じることが出来るかという点を追求すれば、光のバランスや人体の配置なども感じたままとなり、基本的には唯の平面配置の問題だけなってしまう。


また、表現もべつに物にこだわる必要もなくなる、光だけ、影だけを表現しそれを人がリアルだと感じるならそれもまた一つの現実なのである。
こうなると、人はまた公正な判断を出来なくなる、頭で自然を感じるかどうかというのはそもそも、現実の自然と乖離していても別にかまわないからだ。


じゃあ、別に感情だっていいではないか?となる。
表現は既に人間の脳(魂とか)の問題になっているのだから、歌だって、苦悩だって、絶望だって、社会主義だって、となればそれはつまり、センスである。


技術的に上手い絵というのは唯単にうまく人を騙している絵のことである、で、美術は人を騙すためにあるのではないのだ。
上手い嘘は美術の領域ではない、美術といえばアホみたいに真実のようなものを追いかけるのが使命だとか勘違いしている馬鹿供の領域である。


逆に上手い絵は「人を騙す」ことそのものを目的としている場合には高く評価される、何かの別に目的があってそのために人を騙す場合は尚良いだろう。


という訳だ、3回にも続いた長ったらしい文章でわかっていただけただろうか?


美術においてラッセンは語りにくい、同じ平面表現ではあるが絵画とは目的が全く違うように見えるからだ。
ラッセンの絵画は何かの表現を追っているわけではない、虚構をこしらえて特定の何か演出するのにはいいだろう、そういう方面での評価は確かに高い、だが、ラッセンの表現は唯人間を騙しているだけだ。


美術における表現技術という狭い分野では現在のところラッセンの絵は唯のキラキラした絵でしかない。


ちゅいき、別にラッセンが劣っているとかそういうわけでは決して無いのであしからず。