受験制度ってそんなもんか

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私は上記エントリにちょっと違和感がある、確かに学歴が高ければそれが単純に報われるというわけではないのは当然だと思うが。


実際の学力というのが誰でも積立られていくという認識はそうなのかな?と思う。

受験戦争という“ゲーム”は絶妙のゲームバランスで、余程の先天的素養の欠落が無い限りは「努力すれば努力に見合った結果」「努力すればそうでない頭の良い子を上回る結果」が得るチャンスを与えられる。

本当にそうなのだろうか?それは確かにある程度の積立は可能かもしれない、が、実際のところ受験というのはそういう認識で行われているわけではなく、子供を選別し取捨することに意味があると考えているのでないだろうか。


社会において現実的に必要とされることは王になる素質ではなく、兵士になる素質である。
というと、見も蓋もないが、現実的に王ばかりの社会というのは想定されにくく、もっともありうるのは自分や自分の子供が兵士となる現実である。


受験というのは良く出来たもので、あまた生まれる兵士達を管理者、技術者、一般市民、労働者と峻別することを目的としているといえば言い過ぎだろうか?
受験というのは王や革命家を判別するようには出来ていない。


社会では人格はともかくとして目の前の仕事を片付ける能力が保証されなければ仕事は任せられない、出来ないことは出来ないのだ。それこそいくら努力しても無理だというのがある、適材適所とは人事ではよく言われる話だ。
学歴が重宝されるのは努力を問うているのではない、その大学に入学できる学力を問うているのだ、極端な話、遊びほうけて東大に入ったとしても、それは遊んでいても学習する能力があると理解され別段問題にならない。
これを誤解している人が大勢いると思う、自身が努力して勉学したからかもしれないが。
努力→高学歴というのは別段何の保障もされていない、が、高学歴→試験問題を解く程度の理解力・記憶力は確実に保障されている。


で、仕事と学力に何の関係があるか、確かに学力があるからといって何でも出来るというわけではない、しかし、ある能力が必要とされる業務、管理者や一部の技術者の業務は「学」と非常に似通った職務形態をとることが多い。
なにせ人の間の決まりごとはほぼ紙に書いてあるからだ、文字にしても数字にしても。


例えばあなたがなにかの法規的登録を技術者に依頼するとして。
人が良くて無能(憲法って何?)、か、人が悪くて有能(大体暗記してます)かと問われれば、有能な方と答えるのは担当者として当然ではないだろうか。


それが、管理者になれば。
人が良くて有能でなくてはダメだとなるだけである。


で、そういう法律を覚えたり、プログラムを理解したり、監査したり、通訳したりというのは「学」と比較的比例する能力とされているし、私はあながち間違っていないと思う。


で、受験における最も大きな誤解とは、「学力がRPGのように積み上げられていくもの」というところであり。
学力は努力の証であるというよくわからない信仰である。


よく考えて欲しい、毎日走れば幾分か速くなれるだろう。
走ってない人間達よりは確かに少しは速くなる、で、それを積み上げていけば光速を超えるか?
走ってない人間達があなたより遅れて走り始めたとして、その差は練習量だけで変動する?
結局皆走れば足が速い奴が一番になるのではないのか?


走れば走るほど速く走れる、それが「労働者の素質を持つものに管理者に成るべく学力をつけさせようとしてもままならぬ悲惨」を生むのではないのか。


職業に貴賎は無いという建前は当然として、この世の中は労働者であるからすなわち低収入というわけではない(これ意外に重要ね、何故か否定したがる人が大勢いるが。)、技術者であるから高収入かというとぜんぜんそうでもない。


ましてや幸福や生きがいなど論外である。


学力は特定の職業に必要とされる能力であり、その習得にはそれなりの資質が必要である、資質が無ければ諦めろ、といえば差別になるのだろうか。


要は向き不向きをRPG的要素に置き換えることで必死に目をそらしていることが問題じゃないだろうか。
そして、さらに厄介なのは受験はただ兵士を峻別するだけの能力しかないのに、王を生むとか革命家を生むとかそういう馬鹿げた誤解をしているところである。


そして、学力は当然ながら向いていない業種では全く役に立たない。
世の中には只ひたすらに手先の器用さが求められる職種もある。
本当にそれだけの話である。