なぜラッセンの絵はダメなのか、技術は素直に評価されないのか?

さてさてさて、
またまた続き、ついて来てる人はいるのか?


絵が好きな人は多いけど、絵画が好きな人は少ないからなあ。


今回は絵画における技術的評価という側面からラッセンを語ってみる。


絵を評価しようするときよく言われるのが、技術はすげえってやつである。
センスはよくわからない、目で見てわかるやつもいればわからないやつもいる、だが技術は万人が目で見てわかるつまり、公正な評価の基準足りうる。

ってやつだが、


さて、では技術は絵画の評価の基準になりうるのか?


まあ、結論から言うと、可能ではある、しかし、それはセンスと限りなく近づいていくのだ。



さてさて、
技術といえば「写真のような」というような例えがまず浮かぶだろう、だが、写真のような絵というのはやろうと思えば意外に容易なのである、技術的には写真を拡大し、下絵にする、さらに細かくマスで割ってピクセルを埋めるように一つ一つ細かくマスを丁寧に埋めていけば、まるで実物と見間違うようなリアルな絵が完成する。
スーパーリアリズムで用いらていた手法で、この手法を行えば誰でも、というわけではないが、比較的容易に繊細な絵が完成する、そしてそれは結局写真と変わらない。
だから絵画は意味を失い写真に近づけるというのは評価の対象にならなくなってしまう。


ではデッサン力はどうか?
これがまた難しいのである、絵というのはそもそも2次元の表現である、3次元の物体を上手く見えるように2次元に置き換えるとどうしても誤魔化しが生まれてしまう。
人間の目は二つある、それゆえにものが立体的に見えるのだが、同時に目に映る画像というのは単純に物体そのものではない、そのような状態の画像を素直に二次元に移す作業を行うと画面が歪んでしまう。
技術的に画面を歪ませない、それはつまり、嘘である、嘘はデッサンとは対極に位置する技術である。空間表現とか遠近法とは言い換えれば騙し絵なのだ。
物を追求すると画面が歪み、画面を追及すると物がおざなりになる、純粋なデッサンは画面を歪ませる、歪んだ画面は物からも遠ざかっていく。
人間の目によるデッサン力という基準は公正な評価を期待できない。


では、より人間的にリアルに、人間が見たものを映し出せばどうか。
写真ではなく、物でもなく、人間が見た風景をそのまま表現するとどうなるのか?
こうなってしまうともはや人が基準である、人がリアルに感じることが出来るかという点を追求すれば、光のバランスや人体の配置なども感じたままとなり、基本的には唯の平面配置の問題だけなってしまう。


また、表現もべつに物にこだわる必要もなくなる、光だけ、影だけを表現しそれを人がリアルだと感じるならそれもまた一つの現実なのである。
こうなると、人はまた公正な判断を出来なくなる、頭で自然を感じるかどうかというのはそもそも、現実の自然と乖離していても別にかまわないからだ。


じゃあ、別に感情だっていいではないか?となる。
表現は既に人間の脳(魂とか)の問題になっているのだから、歌だって、苦悩だって、絶望だって、社会主義だって、となればそれはつまり、センスである。


技術的に上手い絵というのは唯単にうまく人を騙している絵のことである、で、美術は人を騙すためにあるのではないのだ。
上手い嘘は美術の領域ではない、美術といえばアホみたいに真実のようなものを追いかけるのが使命だとか勘違いしている馬鹿供の領域である。


逆に上手い絵は「人を騙す」ことそのものを目的としている場合には高く評価される、何かの別に目的があってそのために人を騙す場合は尚良いだろう。


という訳だ、3回にも続いた長ったらしい文章でわかっていただけただろうか?


美術においてラッセンは語りにくい、同じ平面表現ではあるが絵画とは目的が全く違うように見えるからだ。
ラッセンの絵画は何かの表現を追っているわけではない、虚構をこしらえて特定の何か演出するのにはいいだろう、そういう方面での評価は確かに高い、だが、ラッセンの表現は唯人間を騙しているだけだ。


美術における表現技術という狭い分野では現在のところラッセンの絵は唯のキラキラした絵でしかない。


ちゅいき、別にラッセンが劣っているとかそういうわけでは決して無いのであしからず。