何故、ラッセンはダメなのか。とか美術の話。

さて、
今日は昨日の続き、
優劣の森にはいると美術ってのはとたんに袋小路に入るから誰も明確なことは言いたがらない。
結論から先に書いてしまえば人間が決めることに何一つ絶対的なものは無い。


しかし、ここは僻地である、いいじゃん、いいじゃん、ではやってみるか。


ラッセンの技術が素人よりも一枚も二枚も上手いのは一目でわかる、なるほど、誰もが納得である。


では技術が素晴らしい、すなわち、美術的観点からも評価できる、となるのだろうか?
ならないのである、何故なのか?


例えば、すべてを小指で書く画家がいるたとしよう、それはそれは技術的に素晴らしく繊細で写真と見間違うほどの出来だとしてもただそれだけというのでは美術という段階においては評価されない。
何故なら、美術における評価とは美術史における評価であるからだ、これは腹が立つが事実である。


要するにある画家が存在し、その画家が作品で後世にどれだけ影響を与えたのか、または、影響力を与えるだろうと見込まれるか、が美術的評価である。


歴史の登場人物に対する評価の仕方と同じである、ある政策や思想、発明がどれだけ影響力があったのかあるのかが評価の主題である。


はい、美術なんて糞だと思った方、ええ、そんなもんです。


しかし、なんでもそのようなものではないのだろうか?
歴史に名が残っている物事といえば、後世に影響を与えた物事ばかりである。


既に誰かが作ったブラウン管をいくら薄くしても歴史には名が残らないが、LEDを開発した人は名が残る。
ただ絵が上手くても歴史に名は残らないが、その作品が後世に影響を与えるようなものであれば歴史に名が残る。


ゴッホラッセンとどちらがどうというわけではない、ただ、ゴッホは後世の美術家に多大な影響を及ぼした、ラッセンはそのようには見込まれていないというだけだ。
(但し、幾つかの分野ではラッセンはとても評価されている、イルカ好きの自然保護団体とか。彼らが人間の歴史を牛耳るようになれば評価はかなり変わるだろう。)


もちろん、これからどうなるかはわからない、ラッセンが改めて評価されるかもしれない。
唯、ゴッホはもう19世紀を代表する画家として評価されていて、そういうのと比べるのは酷かなと、比べるなら、ゲルハルト・リヒターとか、いや、これも酷か。


では、絵画において歴史に名が残るというのはどういうことなのか、これは言っちゃ悪いけど、近代美術史を勉強したりNYの動向を気にしたりしないとわからないのだ、厄介なことに。
アニメで例えるならアニメの流行やアニメの歴史を踏まえずにいきなりアニメを作っても評価されないだろう、という例えがわかりやすい、いまさらドラゴンボールのパクリを作っても評価はされない。
評価とはそんなもんではないだろうか。


まあ、美術における評価とは部屋にきれいな絵を飾りたいというような方向とは大きく外れていることは確かである。


で、趣味の話。


趣味は人それぞれだが、絵に関しては美術史的に評価が高い絵が一般家庭にあることなど滅多に無い、あってシャガールぐらいだろう。(シャガールにしても、、、以下自粛。)


たとえ、ゴヤとか、ミケランジェロとかが自室に飾ってあったとして、果たしてそれで趣味が良いといえるのだろうか?
絵画には美術史的な優劣が確かに存在するがそれは一般家庭に飾る絵がどうこうという次元ではないのだ。
そして絵画という分野には美術史的優劣しか優劣を判断する基準は存在しないのである。


では、見た目が綺麗とか、技巧が素晴らしいとかそういう絵画とか美術とかではなく平面としての優劣はどうだろう。
これは基本的に個人の目に任されている、だれも文句は言わないし、どの絵を飾ろうが自由である。
で、この範疇での明確な基準はどこにも存在しない、それは自由であるし、ラッセンだろうがみつおだろうが、板垣退助肖像画であろうがなんだってかまわない、自分が良いと思った絵を飾るのが一番良い。


どんな分野でも評価とはそんなものだろう。


パンクを生み出したセックスピストルズの音楽性は技巧がどうこうという枠内では評価されていない。
評価とは「パンクを生み出したセックスピストルズ」であって、「聞くとわくわくするよ」てのは公正な評価ではない。
そして、歴史的な評価は優劣を明確に判断するが「聞くとわくわくするよ」という最も正当で真っ当な評価とはいつの間にか乖離してしまう。
で、「聞くとわくわくするよ」って部分はどうにも優劣のつけようのないものなのである。


評価ってのは実に味気のない、ある種くだらないもので。
現場で造ってる人間が特別気にすることでもないし、まして買うほう、飾るほうは全く気にする必要もないと思うのだが。


(独り言、ちなみに私個人はラッセンに特別技術があるとは思わないし、友達の部屋にラッセンが飾ってあったら趣味が合わないかもなあ、とも思うだろう。ラッセンの制作姿勢はプロだなとは思うけど。)

絵画の見方(どう見れば美くしいと感じるのか?)

今日はこの日記を見てちょっと考えてしまった、蛇足に流れてもはや意味がわからんが。

絵画に材料費以上の価値はあるのか?

よく話題になる話。
他には宗教は本当に必要なのか?とかかな、


よく現代美術(20世紀以降)は意味がわからないと言われる、この絵が何なのか、一体何を表現しているのかわからない。
そもそも絵ですらないではないか?
躍動する筆跡?鮮烈な色彩?リズム感あふれる空間表現?、誇大妄想じみた表現だ。
見ている分にはお世辞にも下手糞な塗り絵以上の何物にも見えないし、そもそも平面を分割しただけで作品などと、馬鹿馬鹿しい、彼らよりずっと絵が上手い素人などいくらでもいる、集団催眠か新手の詐欺では無いのか?


さて、どうだろう、少し見方を変えて見ようか、
ここに文脈という言葉がある、例えば一般的に禁止される差別発言・暴力発言も文脈においては様々な表情を見せるし、作品によっては認められる場合もあるだろう。(といっても聖書かららい病の記述が消えて久しいが。)
一概にひとつの台詞、ひとつの単語を上げて作品全体を語るなどという暴挙を行ったら笑いものにされても文句は言えない。


さらに、漫画というものがある。
例えば、冨樫の「ハンター×ハンター」を語っていたとして、その中の一コマのみを取り上げて「下手糞な落書きだ、何を表現しているのか?作者には画力が無い、理解できないし作品として認めることは出来ない、もちろん冨樫には作家としての価値は無い。」と語っていたらどうだろう?


絵画一枚だけ、作家一人だけを訴状に上げて理解できるのか否かを問うということはそういう行いに近い。


絵画には文脈がある。
特に現代美術は中世と比べて絵画に関わる人格がより鮮明に社会に近づいているのでよりその傾向が強まっているといえる。
現代美術という言葉自体が死語となってはいるが、現代美術作品を語る際には、絵画的評価に加え時代的評価、哲学的評価、社会的評価も加味しさらに人類の認識の歴史そのものを考慮に入れる必要さえ出てくる。
マネが当時どういった評価を受けていたか、ポロックはどうだったか、ピカソはどういう時代に生きていたか?リヒターに連なる作品は?ジャスパージョーンズの影響力は何処まで及んだのか?


ちょっと難しいことを書いているように見えるが、例えば「デスノート」を語る際には、奇抜なストーリー、美麗な描写力だけではなく、少年誌という枠を改めて考え直させる作品、現代社会の空気を新たな視点から描いた意欲作という側面も決して無視できないだろう。今まであった作品群との比較や、その後に続く作品に与える影響も考慮したフラットな評価が必要になる。
当然デスノートが生み出された社会的背景の議論になるはずだ。
現代において文化作品は時代を映す鏡だとといわれている。


現代絵画は歴史という文脈の中に存在し、人類の発する情報の一つとして存在している。例えるなら人類という演劇のなかの役者の一人、台詞の一つだと考えてくれればいい、当然大根役者もいれば名演もいるし、名台詞もあれば芋台詞もある。
要は、絵画は社会とは切り離された単体では存在しないし、より我々の社会と密接に関わっているということだ。


さて、そういった複合評価を不純である、と感じる人もいる。
絵画は絵画として独立して存在し、その価値は絵画的価値に集約されるべきだというような感じである。
絵画に必要なのは優れた眼と画面構成力、色彩表現力、何よりデッサン力、というやつである。

画家といえば髪を後ろ手に結って山奥で自然の山の絵や花、動物を物静かに描いているような画家のイメージを持っている人がいるのではないだろうか?


少し見方を変えてみよう、
此処で言う絵画的価値とは音楽で言えばクラシックの領域である、音楽文化と逆になっているのでちょっと説明が難しいが。
純粋に個人の力で音楽の音楽性を追求するのがポップスだとしよう、で、先人の音楽を学び理論や知識も踏まえた上で表現されるのがクラシックだとする。(かなりむちゃくちゃな例えだが。)
絵画ではこれが全く逆で、個人が純粋に絵画として絵画的価値を追求するのが現代で言えばクラシック的な絵画。
絵画史、社会学的見地から絵画を制作するのが現代美術というような分類となっている。(ポップアートはここでは無視します。)


両者には確かに隔たりがあるように見えるが、一般的にどちらも価値がある。
どちらがどうというわけではない。
今の音楽シーンを引っ張っているのがレディオヘッドなのか?ヘルムート・フリードリッヒ・ラッヘンマンなのかといわれても誰も答えることが出来ないに違いないからだ。


そして一番の問題は現代美術を鑑賞する際には、それなりの知識がないといけないというところである、
上記のとおり絵画史、歴史という文脈において生み出された作品は絵画史に精通していなければわからないことが多々ある、もちろん視覚的に一目見てすばらしいといえる作品に出会えるかもしれないが、たいてい絵画史という文脈をなぞらないと意味がわからない場合が多い、どうしても絵画という分野から絵の視覚情報だけですべて理解できるように思われるが、そうもいかないのだ。
クラシックを楽しむのにそれなりの知識があればより楽しめるというようなものだと考えてくれればいい。
パロディだらけのアニメを楽しむのに背後の作品群を一通り見ておいたほうがより楽しめるのと同じである。


これは私見だが視覚的に素晴らしいとされる作品、例えばゴッホとか。
あれだってゴッホという画家の半生と切り離して考えるのは難しいだろうし、実際に絵を物理的に見るのか、印刷された情報を見るのかでも全く違う。
それにバロックの頃の絵とかむちゃくちゃでかいんだって、おおーでけえ、すげー、見たいな。
物理的に絵に圧倒されることもある。
んで一度現物をみたら忘れない、これすごい、なぜか美術館に見に行った絵はどんなに意味がわからなくても覚えてるんだから不思議。
教科書暗記してテスト出るよみたいなのはさっぱり頭から消えるのよ、でもピカソとか見に行ったら忘れない、でいいなと思って図版買っても家で見たらなんだこれ?みたいな。
ジャスパージョーンズでもポロックでも忘れない、意味がわからないのに忘れない、これはすごい、ポロック(笑)とか言わないそこ!
バーナードリーチですら作品通してみると面白い全く専門外の陶芸だったけど。


ほかにもさ、いい作品展行ったら一人の作家の生涯が見えるだよ、最初は風景でだんだん色彩だけで表現しようとして「ぱっとしないな」なんて偉そうなことを考えてたら突然絵が変わって衝撃死したりするんだって、その前の一枚とその後の一枚がぜんぜん違ったりして、パーテーション一枚の間に何があったのか?童貞捨てたのか?、んでそれで驚いたらさらに次の一枚はえらいことになってたりするんだけど。
最終的に最後のほうの絵だけ見ても何をやっているのか意味わかんないだろうなってこともある。


あ、興奮しすぎた、そういうこと、えと、週末に美術館に行くのは楽しいですよ。以上。

ニコニコは搾取?


この問題は深刻だ、ニコニコ動画は最初からいきなり難所にぶち当たっているといってもいい。
例えるなら、青洲の曹操軍かはたまた孫堅の虎狼関かって余計わかりにくいわ。

詰まるところ。
現在のニコニコユーザーの性質から見ればアニメさえニコニコできればよいのであって。
アニメでニコニコできなければ、一体どのコンテンツでニコニコするのだ?ということでもある。

物議をかもし出しているこちらでも紹介されているアニメ製作価格表を見てみよう。
ニコニコから消されるアニメのDVDは買うべきじゃないより、

スポンサー
 ↓
5000万円 
 ├───→1000万 広告代理店
 ↓ 
4000万円
 ├───→2000万 放送局(キー局)
 ↓ 
2000万円
 ├───→1200万 放送局(地方局)
 ↓ 
800万円
 ├───→数百万 元請けプロダクション ※実際の制作費は1000〜1300万
 ↓ 
下請け
 ├───→数百万 下請けプロダクション
 ├───→1.6万〜 声優(30分アニメ1話) ※新人は8000円
 └───→3万〜  アニメーター(月収)  ※原画なら動画より上

大元ソースはこちら

この表を見る限り、実際アニメ製作にかかる費用は1,000万から1,300万前後だということがわかる。
そして、1,000万では足りずDVDの売り上げで元を取っているのだという。
まあ、元ソースの経済産業省でこのモデルが一般的なのかどうかといわれると定かではないのだが。
この表が信用に値するデータだとして話は進める。


この一見、中間搾取万歳、奴隷万歳のように見える構図だが、実際はたしてその通りなのだろうか?
TV局の内情に詳しいわけではないのだが、
スポンサーというのは一般的にアニメに金を払っているわけではない、CMに金を払っているのである。
要するに広告料というわけだ、おもちゃやグッズを売るため、はたまた子供にケロッグコーンフロストを食べさせるためにアニメを作っているのである。

だから新聞の広告料のように、広告料は広告規模に対して支払われるのであって、決してアニメ製作に対して支払われているものではない、例え中間搾取がなくなろうともアニメ製作に5,000万円の金が使われることはないのだ。


そして、アニメは放送されなければなの価値も無い、電波に乗ってこそ宣伝媒体として価値があるのである。


でだ、ニコニコに動画が挙げられたらどうなるのか?
スポンサーは宣伝がカットされるのでゲンナリ、アニメ製作者もDVDの売り上げが減るのでゲンナリ
視聴者はいつでもタダで見れてニコニコ。
これはよろしくない。
スポンサーはアニメに金を出さなくなる、いくらニコニコで人気があっても誰もケロッグコーンフロストを食べてくれないからだ、そうなると、地上波でアニメ枠が消え、ニコニコに動画が上がらなくなる、ニコ中涙目である。


ではどうするのか、ニコニコがお金を取ってアニメを作るという方法がある。
例えば、制作費を1,500万とし、DVDが今より少しばかり売れなくなった場合。(オタクがDVDを買い続けてもDVDレンタルが激減するから。)


ニコニコのユーザー(ID数)は300万人である、単純に考えるとアニメ一本製作するのにニコ中一人当たりの資金は5円ということになるまあ、大目に見ても10円か、なんだ安いじゃないか!


ちょっと視点を変えてみよう、ニコニコではランキング上位の動画でも再生は10万程度、誰しも見たくも無いアニメに金を払いたくは無いだろう。
動画を見たいやつだけ金を払うとする。
となると大体一人当たり100円〜150円は出さないといけない、アニメ一本30分150円、ん?
ちょっと難しくなってきたのではないだろうか?
人気が無ければもっと値段は高くなる。
5万人なら300円でTUTAYA以上である。


さらに視点を変えてみよう、
物を作る時には予算というものがある、作ったけど売れませんでしたというのでは話にならない。
この点スポンサーがついているアニメはラクである、なんとか作ればよい、なんとかして作れば例えDVDが売れなくともスポンサー料の1,000万はとりあえずは貰えるのだ

ニコニコはどうだろう?
お金を払うのは1話だけということが往々にしてありうる、そうなると3話まで作っている製作会社は即涙目である。
ここら辺商品が残る物売りとは大きく違う。
前金でないということはかなりスリリングで危ない橋を渡ることになるのだが。


さらにさらに回線維持費もある、これは本来の地上波であればスポンサーが負担するもので、広告料として中間搾取されている主な部分だ。
今のところニワンゴは赤字である、アニメをニコニコという媒体に乗せて商売するならマージンをニワンゴに払わなくてはいけなくなる。
これがいくらぐらいになるのかというのははっきり不明であるが、それなりに負担になるだろう。


ではスポンサーを得て?
CMというのは消費税と同じである、企業は広告料として地上波にCMを打ち、消費者はそれと意識せず広告料込みの商品を買っているのだからその規模は尋常ではない。
視聴率1%当たり視聴者は70万程度だといわれている、深夜アニメでも1パーセントはとるのだから現状ニコニコが視聴率的な宣伝効果で対抗するには幾分無理があるように思う。


さて、小学生程度の算数と、幼稚園児程度の頭脳でニコニコとアニメの関係を見てみたが、どうだろう?
アニメの現在は間違っているし是正すべきだから我々が著作権を侵害するのも当然だ。
と楽観的に書きたかったのだが、私にはなかなか難しいように思う。


内情に詳しい方がもっと明瞭な頭脳を使って説明したほうがいいと思うが、まあ、私はこの程度だ。
正直この分野さっぱり無関係だし無知であることは承知である。
いい突込みがあればそこから良い発想が生まれるかもしれない。


さて、これからどんな天才が出てくるやら。

安全と座席

社会というのは命を一番上位価値においているものだ。


自明というか当たり前の話なのだが、
果たして本当に「命を大事に!」しているかというと難しい問題である。


もちろん、世の中には出来ることと出来ないことがあって、
どれだけ高額の費用を払ってもかまわないから「命を大事に!」というわけにもゆかず、現実的に最善を尽くすのではあるが。


しかし、世の中には最善を尽くそうと思えば出来るはずなのにほうっておかれる安全というのも存在する。
今日はその話である。

まずは下図を見て欲しい。

上記は通常起こりうる交通事故の状況を図にしたものである、見てもらえればわかると思うが
腹部と頭部に尋常ならざるダメージを負っていることが理解できるはずだ。


このダメージは深刻で、自動車事故なら速度によっては内臓損傷、軽症でも鞭打ちなどの怪我を負うことになる。
ベルトをしていなければ命に関わるのは言うまでも無い。
ましてや航空機の事故ならばその衝撃も大きくベルトで腹部を切断され、前の座席に頭部をめり込ませて絶命ということになる。


このように進行方向に向かって座ることは事故がおきた時非常に危険な行為であることがわかる。


さて、もうひとつの図を見てもらおう。


上記は、進行方向に対して逆向きに座席を配置したものである。
この場合事故の衝撃を座席が吸収することによって身体へのダメージは小さくなる。


この、「命のために座席を逆にしよう」というのは昔から言われてきたことで、新幹線や航空機では何度か検討されたのではあるが、居住性の問題から無視され続けている案件でもある。
だれしも進行方向と逆向きに座りたいとは思わないからだ。
多分酔うし。


ここなのである、
命というのは確かに最も大切と言われているが、それは往々にして言葉の問題や結果論になりがちである。


我々は時として居住性やデザイン性のために命を無視することさえある。
そもそも社会において命は等価だが、我々は他人の命を自分の命と等価には考えていない。


要はバランスだ、肝心なことは何も決まっていないのである、
「命を重視するべき」というこれほど当たりまえに吐かれてきた言葉さえあまり信用に値しないことがわかるだろう。
状況は流動的で人間界はかくも複雑なのだ。

揉め事ってタグは酷いと思う

まあ、どこそこかに同じようなことが書いてあった気がしたのだが。


私はあまり揉め事が好きではないのでこういう僻地でノンボリとブログッてるんが良いのだが。
あまりハテナ村でも絡まない。空気読むの苦手だし。
だが、たまにブログ界隈というよりハテナ界隈ではブログ抗争が起きているのは知っている、IDコールのせいかな?


でまあ、血で血を洗うとは言わないが、
それなり互いに正論と正論をぶつけあって戦っているように見える。
で、ブクマにつくのが「揉め事」タグと。


いや、揉め事には違いが無いのだが。


はっきり言って当事者は命を賭けて論争をしているわけですよ(多分)、右翼か左翼か、保守かはたまたリベラリストなのか?
それこそ、ブログを張ってるわけで、論争に負けると結構なダメージがあったりするのだろうし、一度論争に負けると結構精神的ダメージも大きいんだろう。負けたログは残り続けるし。


夕食も喉を通らないくらい?かどうかは知らないが喧嘩は大変なのだ。
揉め事を経験したことが無くても、人狼やったことある人なら分かるだろう。


で、そんなこんなを「揉め事」一言で片付けちゃうのはどうなのだ?
これでは必死に揉め事っている人があまりに可愛そうではないか?
少なくとも喧嘩売ったほうと売られたほう、巻き込んだ人と巻き込まれた人がいるのに、巻き込まれた人も一緒くたに「揉め事」ってのは無い、だろう。


さらに、喧嘩売るにしてもどうしても許せない何かがあったのかもしれない、どうしても伝えたい事情があるのかもしれない。


争いって醜い、争う人はどっちも悪いよね?と、一言で説明されているようで。
必死に揉み揉みやってるのがまるで馬鹿みたいである。


プライドを賭けた切った張ったの論争はどんな内容にしろ真剣なのである。
大部分の人は揉め事なんてしたくないのである、止む終えない事情で巻き込まれたり巻き込んだりと、
人間界はかくも複雑なのだ。


これこれこういう揉め事があるという認識ならまだ分かるが、「揉め事」というカテゴリーにとりあえず入れちゃうのは必死な当人に失礼であろう。


と、ここまで書いて揉め事タグってあまり使われてないことに気づいた。
なんかよく見かけるような気がしていたんだけど。

初音ミク・オタクVS一般人論争に思う。


この論争はなんだろう、世の中に二種類の人間がいてオタクかそうでないか、一般人はオタクの良さをわかりえないし、オタクは一般人の無知を笑うというような構図だろうか?うーん。


初音ミクを例にとって見ると、そういうオタク論争とはちょっと違うように思う。
具体的に言えば、一般人が初音ミクをキモイと思うより、初音ミクに乗り遅れた(と感じる)人が初音ミクと関わっている人をキモイと思っているのではないだろうか?


というのも、本当の一般人はわざわざ初音ミクの動画を見たりしないから、となる。
もっとぶっちゃけてしまえば、一般人とはニコニコのアカウントなんか取らない人たちのことで(ニコニコ動画の利用者数も国民数比率ではミリ)、はてなのIDもとらない(もっとミリ)、一般人とはたまにインターネットエクスプローラーを開いてネット検索はYOHOOでっていう人たちのことだ(これが大多数)。


はてなでというかブログで初音ミクに触れてる時点でこちら側の人間だ。
だから初音ミクにおいてオタクVS一般人論争には意味がない、一般人はそんな論争しない。


だから「私は一般人だから初音ミクの魅力がわからない」という文章はちょっと変で、ただ初音ミクがよくわからないだけの人である。
初音ミクの魅力がわかる人間はすべからくオタクである」これもただ初音ミクの良さがわかった人だ。
初音ミクはだたのソフトである。オタク判別機械ではない。


では何故、こんなことになっているのか?


私は初音ミク物語を造っている人間と、そうでない人間に分けられるのではないかと考えている。
もともと初音ミク物語は限定的なニコニコ動画という舞台で始まったものである。
それゆえその誕生から現在にいたるまでに初音ミクがどのような人格(?)を獲るにいたったかというのはニコニコ民の努力の証である。


初音ミクをどう歌わせたらかわいいのか、どんな歌を歌わせればいいのか、初音ミクはどう振舞うのか?そういう試行錯誤と批評がニコニコでは常に行われていた。
そういう積み重ねを共有してきた人たちとそうでない人では受け取り方が大きく違って当然である。


そういう積み重ねをしていた(見ていた)人は「初音ミクは我々の文化だ」「我々の初音ミクだ」という認識だろうし、そうでない人はナニこれ?わけわかんなーいとなるのだ。


だから、「初音ミクを一般化させようというのが無理じゃん」という批判は初音ミクの魅力そのものとは大きくズレている。
そもそも彼らは初音ミク物語の共有が楽しいのであって、どこかの大企業に特別に一般化されたハイブリット初音ミクをいきなり提供されたとしても「は?そんなの知るか」「あ、っそう」となるのは明白だ。


彼らニコニコ民が初音ミクの一般化を望んでいるとは思えないが、例え望んでいたとしても彼らはその物語を共有しないと納得しないだろう。


で、「そういう物語の共有がキモイんだよ、オタク臭いんだよ」との声があるかもしれないが、それは違う。
これは共有の場が小さいか大きいかという違いであり、ただ単に少数派はキモイといっているのと変わらない。
それに、一般人だって物語の共有を常にやってる、一番わかりやすいのは国政、選挙。
亀田とか、姉歯とかもそうだ。
我々は有象無象の様々な声を上げて物語に関わろうとしている、そこに意義を求める。


壮大に言ってしまえば、消費だって自分たちが好きなものを買うことによって、企業を変え、社会体制を変えることで大枠として日本社会を共有してるともいえる。


という訳で、私たちは自分たちが関わっているものほど愛着や嫉妬心、老婆心がわくのだから、初音ミク騒動もそういう観点で眺めみたら、何のことはない、技術がどうのというのはただの飾りであり、初音ミクに関わってきた人物とそうでない人物の対立という。


特別目新しい話でもないよくある光景である。

自衛隊の補給艦がどうしてこうして

誰も突っ込まないが、というか、関心がないが。
自衛隊の補給がイラク作戦に使われて何が問題なのだろうか。


マスコミはいけないよ前提だが、どちらにしても油はアメリカ軍にいくわけだろ。
武力行使と一体化しないとか、あほなんじゃないかと。
何を守りたいのかさっぱりわからん。


既に形骸化した理念を形の上だけ言い繕っているだけだろ。
誰も彼も形骸化しているのを前提でやってるくせに相手をあげつらうためだけに都合よく理念を利用するとは小悪党甚だしい。
イラク戦争に日本が関わることを反対するなら、実質日本が補給基地やってる在日米軍撤退論から始めるべきだろ。


馬鹿馬鹿しい、非常に馬鹿馬鹿しい。
油に名前でも書いてあるんかい。


それとも戦争の後方支援は戦争とは関係ないといいたいのか?
海上制圧の油は出すが戦争に油を出すのは嫌だというのか?
何のための海上制圧なのか?戦争のためだろう。


湾岸戦争で日本は金を出したがその金だって人殺しに使われた金の補填だろうに。