初音ミク・オタクVS一般人論争に思う。


この論争はなんだろう、世の中に二種類の人間がいてオタクかそうでないか、一般人はオタクの良さをわかりえないし、オタクは一般人の無知を笑うというような構図だろうか?うーん。


初音ミクを例にとって見ると、そういうオタク論争とはちょっと違うように思う。
具体的に言えば、一般人が初音ミクをキモイと思うより、初音ミクに乗り遅れた(と感じる)人が初音ミクと関わっている人をキモイと思っているのではないだろうか?


というのも、本当の一般人はわざわざ初音ミクの動画を見たりしないから、となる。
もっとぶっちゃけてしまえば、一般人とはニコニコのアカウントなんか取らない人たちのことで(ニコニコ動画の利用者数も国民数比率ではミリ)、はてなのIDもとらない(もっとミリ)、一般人とはたまにインターネットエクスプローラーを開いてネット検索はYOHOOでっていう人たちのことだ(これが大多数)。


はてなでというかブログで初音ミクに触れてる時点でこちら側の人間だ。
だから初音ミクにおいてオタクVS一般人論争には意味がない、一般人はそんな論争しない。


だから「私は一般人だから初音ミクの魅力がわからない」という文章はちょっと変で、ただ初音ミクがよくわからないだけの人である。
初音ミクの魅力がわかる人間はすべからくオタクである」これもただ初音ミクの良さがわかった人だ。
初音ミクはだたのソフトである。オタク判別機械ではない。


では何故、こんなことになっているのか?


私は初音ミク物語を造っている人間と、そうでない人間に分けられるのではないかと考えている。
もともと初音ミク物語は限定的なニコニコ動画という舞台で始まったものである。
それゆえその誕生から現在にいたるまでに初音ミクがどのような人格(?)を獲るにいたったかというのはニコニコ民の努力の証である。


初音ミクをどう歌わせたらかわいいのか、どんな歌を歌わせればいいのか、初音ミクはどう振舞うのか?そういう試行錯誤と批評がニコニコでは常に行われていた。
そういう積み重ねを共有してきた人たちとそうでない人では受け取り方が大きく違って当然である。


そういう積み重ねをしていた(見ていた)人は「初音ミクは我々の文化だ」「我々の初音ミクだ」という認識だろうし、そうでない人はナニこれ?わけわかんなーいとなるのだ。


だから、「初音ミクを一般化させようというのが無理じゃん」という批判は初音ミクの魅力そのものとは大きくズレている。
そもそも彼らは初音ミク物語の共有が楽しいのであって、どこかの大企業に特別に一般化されたハイブリット初音ミクをいきなり提供されたとしても「は?そんなの知るか」「あ、っそう」となるのは明白だ。


彼らニコニコ民が初音ミクの一般化を望んでいるとは思えないが、例え望んでいたとしても彼らはその物語を共有しないと納得しないだろう。


で、「そういう物語の共有がキモイんだよ、オタク臭いんだよ」との声があるかもしれないが、それは違う。
これは共有の場が小さいか大きいかという違いであり、ただ単に少数派はキモイといっているのと変わらない。
それに、一般人だって物語の共有を常にやってる、一番わかりやすいのは国政、選挙。
亀田とか、姉歯とかもそうだ。
我々は有象無象の様々な声を上げて物語に関わろうとしている、そこに意義を求める。


壮大に言ってしまえば、消費だって自分たちが好きなものを買うことによって、企業を変え、社会体制を変えることで大枠として日本社会を共有してるともいえる。


という訳で、私たちは自分たちが関わっているものほど愛着や嫉妬心、老婆心がわくのだから、初音ミク騒動もそういう観点で眺めみたら、何のことはない、技術がどうのというのはただの飾りであり、初音ミクに関わってきた人物とそうでない人物の対立という。


特別目新しい話でもないよくある光景である。