ルールは明確だ。



まず断っておくが、私は医学に精通していない、というより、無知である。
私の現状の認識としては、こちらが妥当だろうと思っている。


まあ、言うべくもあらず、
一般的に絶対に治る病は無いし、医者がケアルを使えるというわけでもない。


だが、実際に起きたのは悲劇だった。
しかし、誰が悪いというわけではない。ミスはあったのかもしれない、だが、それは故意では無いだろう。
ミスは起こってはならない、だがミス自体は常にそういう認識の基に起きるものだ。


そして、受け入れを拒否した病院の、リスクを鑑みた判断というのは実に合理的で正しい判断でもある。
訴訟リスクを全く考えない病院というのも非現実的だ。


ここで問われているのは。
人的ミスを許容するのか、しないのか。
起こった結果に対して責任を取るというあたり前の社会の選択ではないのか。


そして。
我々は人的ミスを排除していくと決めたようだ。


例えば、 川口市で先月二十五日に起きた、私立小鳩保育園の園児の列に車が突っ込み、園児ら二十一人が死傷した事故。
なども上げられる。


この事件では加害者の行為は完全に人的ミスである、が危険運転致死罪を適応させるべき、という流れになっているようだ。つまり、罪は結果に大きく依存されている。
被害者がいた、子共だった。というのが主な問題で、事故に至る経緯は特に問題とはならない。
ここで問われているのは、意思ではなく結果である。


こういうタイプの事件は。
耐震偽装事件とか、昭和天皇メモ、もっと言うなら鳥インフルエンザぐらいから顕在化しているようだ


結果論というのは確かに一つの正論でもある。
オーケー、いいだろう、全ての行為に責任がついて回るのは当然だし、ごちゃごちゃ言わずに結果どうなったのか、という問題が第一である、理解した。


が、翻ってみると、我々は意志をうまく認識、処理できていないのではないか?
とも思う。
曰く、結果主義というのは、元々は結果を追求したという「結果」ではなく、失敗の末の妥協ではないかと思うのだ。
単純に、結果主義というのは、意思の定量化に失敗したということではないだろうか?
我々には意志の定量化に足る基盤というものが無いからだ。


どこかで我々の社会のルールは変わった、それを認識しているものはうまく立ち回るだろう。
だが、未だにそのことに気付いていないものは泣きを見ることになる。
こういう考え方もできる。
確かに、殺人は大きな問題だ、だがそれは殺人が悪いというわけではなく、人が死んでしまったということが問題なのだ。と。
確かにイジメは大きな問題だ、だがそれはいじめが悪いというわけではなく、被害者が死ぬことが悪いのである。と。


こういう、疑問は愚問だとも思うが。


実際に奈良で起きた訴訟リスクを鑑みて患者の受け入れ拒否という結果は、誰かが高尚な意思を持つより、ミスという現実的な結果の方が優先されているという証左なのである。
これは誰が悪いわけでもない、が、医師に崇高な使命感や、教師に聖性を求めておいて、逆に医療ミスを許さず、かつ、教師の権力を認めないとなると。
実際こういう公共性のある職場は立ち行かないと思われる。
事実、私立学校のリスク回避の方が公立学校のやさしさより高く評価されている、医療は内情が良くわからないが、高級な機材と優秀な医者、高い治療費と契約書、という原理が働く方が現状よりもはるかにマシになるのではないかとも思う。


金が無い奴、力の無い奴は死んだ方がいい、というのは真理でもある。
各差社会というのは悪いとか良いとか言うものではない、今まではたわいの無い嘘をついていた、もちろんそれが原因で起きた不幸もある。
嘘をつくのをやめた、変わらない真理が顔をだした、それが原因でおきる不幸もあるということだ。
そして、私たちは意識するにせよ、しないにせよ、そちらに舵を切ったのだろう。