■百鬼夜行抄8巻購入[雑談]

百鬼夜行抄8巻」今市子著 購入。


面白いですよ、相変わらず、皆さんもぜひ買いましょう。
買うなら一巻からね。


こういう物語を読むと正直私は感服するほかないな、「ああ、またすごいものを作ってしまったんだな。」と口を曇らせるしかない。
あくまで想像だが、こういう物語を作るのはとっても大変だと思う。
頭の中でキャラクターが動きだすまでは、筆を持つのも辛いのではないか?と思う。
身を痛めて生まれた物語、それはまさに人から産まれた物語そのものように感じるのだ。


私にはこういう身を切るような真似は到底出来ない、そこがプロとアマの大きな違いかもしれないなあ。


もちろん完全無欠の物語というわけではなく確かに突っ込みどころというか、幾つかの部分に口を挟むことは出来る、だが、それは本当に「無意味」なことだ。


例えばあなたは、「桃太郎」に文句をつけることが出来るか?答えは否であろう。
それはそういう物語として存在しているからである。
物語としての「百鬼夜行抄」は最初から批評など必要としていない。


では、不必要な私の感想を。
百鬼夜行抄」は少女漫画なのだが、どういうわけか恋愛観がごっそり抜けてる。
恐らく意識的に描いていないのだろうと思われるが。
愛は溢れるほどあるのだが恋がさっぱり無い、これは主人公律とヒロイン司の関係、従兄弟という血の絆というコミットに集約していて。ああ、血の絆は何より濃くて絆は深いけれど、半分呪いのようなものなんだなと読者に訴えかけてくる。
そして「愛というのはとても怖いものだ。」


本来の大本の構造はホラーである、それも古臭いホラーである。
いうなれば、ジャパニーズホラーの王道である。
しかし、読んで見るとわかるのだが今市子の世界観によって使い古された古道具が生き生きと蘇るさまは圧巻だ。
こういうことが出来るのは、下地の意志(方向性)が強固であるからである、何を持ってきても良い物語を作ることができるだろうが、百鬼夜行ははまりネタであると思う。


妖怪が生き生きしている、どちらかというと、人間サイドより生き生きとしていると思う。
生き生きした人間が出てきたなあと思ったら、妖怪だったり、既に死んだ人だったりする。
妖怪は基本的に何でもできるのだが、現実的に何でもできるわけでもない、その境に律や司がいるのあろうが、そういう妖怪と人間の境界を曖昧にすることによって、物語の枠をあえて柔らかくしている。
これは描いている作者自身もはっきり、ここまでが人間と妖怪の境界と定めていないのではないのではないかと思う。
おかげで、読者も物語の境界をはっきり読み取れないのであっさり作者の罠にかかる。これが面白いところである。
が、いい意味でも悪い意味でも主人公「律」はギリギリである、あれは危ない。


多少なりとも、清いココロがあれば妖怪が見えるというようなふしがあって、妖怪が見えない人間はたいていひどい奴で最終的にひどい目にあう。
本人は何でひどい目にあったかさっぱりわからないので、随分悲惨である。
読者は常に「律」視点だからカタストロフとして救われているが、傍(例えば霊視が出来ない人)の視点から見たら唯単にひどい話ばかりだと思う。
これは律の特異性と孤独を浮かび上がらせると供に、世界の不必要な広がりを抑えている。
垂直落下式の井戸のような狭くて深い物語には欠かせないだろう。
故に読者は律という代償を払わなくてはならない。


また、これらの物語を別の人間に描かせたら全く別の話になりそうで、そういう意味でも興味深い。(特に箱庭の話とか、人形屋敷の話とかは、単なる推理サスペンスとして全く別の話になりそうだ。)


実際に、律が既にいない人間と仮定しても読める話だから尚のこと恐ろしいのだ。