■起動戦士ガンダム[雑談]

起動戦士ガンダムが起動したり、しなかったり。
というわけではなく、少し前になるが富野由悠季の著書を購読したので、雑談。
そもそも、素人が批評などやるべきではない。


機動戦士ガンダム〈1〉 (角川文庫―スニーカー文庫)


まあ、それはともかくとして、
私がガンダムという物語を知ったのはついこの前の話である、それまでは「ガンダム」という名は知っていたが動く姿を見たこともなく、せいぜいガンダムなる格好のいい正義のメカがザクやらドムや悪の使者どもをばっさばっさと切り伏せる、その程度の認識だったので結構衝撃だった。


「よくこんなものが放送できたな」という感想と、「良くこんなものが受け容れられたな」と言うものであった。
実際に受け容れられたのだから今更なにをかをいわんやであるが、それだけ日本人というのは器が広いのだなあと思う。これだけでも十分よい国だと思うよ私は。


で、やっぱり私は字という形で物事を追わないと、いまいち作者の真意を掴めない性格なので、小説版を買ってみた。(あくまで私の側からという話だが)
実際にどうなのだろう?
アニメ版と小説版では大きく物語のスジが異なる、さらにアニメ版では描き難かったオーバー15な描写が見られる。
実際にどうスジが異なるか、どうオーバー15なのかは実際に読んでもらうとして。
やはり、小説版に言えることはアニメ版よりリアルなリアルロボット戦争であるということと、最終的な物語の収束をあの地点に持っていったということは富野由悠季にとってとても大事なことだったのだろうが破綻しているということが挙げられる。


小説版の宇宙戦争はアニメ版より戦術がいい加減だが、ホワイトベースに僚艦がついたり、量産型ジムやボールが配備されたり。
アニメ版で荒唐無稽だったホワイトベースの孤立感が幾分緩和されている。
さらに、アムロが兵士として大人になっていたり、カイやハヤトが一介の兵士だったりとそこら辺も少年成長物語としては薄い印象である。


さらに、実際にストーリがどうであるかという些細な面よりも、富野自身があの結末に持っていきたかったというのが大きくあって、それが故に大局的には大きな破綻をきたしている。
まあ、些細なことなんだろう。
小説を読んでみると富野由悠季自身が常に抱えているある種の破綻が良くわかった、物語の大筋をぶち壊してでもやりたいことをやるというということで、それが原因で物語が破綻してもかまわない、という性質だ。
そして、かなりいい加減に作品を作り始めるということもわかってくる。
それが良い悪い以前の位置に富野という存在があるのだが。


そして、富野がやりたかったこと、世界を俯瞰し、客体化し、潔癖で正しい道を選択できる存在と、そういう意志の存在、そしてそれらを信じるということ。
こういっちゃあなんだが、それってガンダム世界とは根本的に矛盾する。
それぞれが正当な主張を互いに主張し争うという混沌な世界に、突如現れる、絶対的な共感。
そいつは端的には他者概念を崩壊させようとする、突如として争いが無意味になって究極の平和が訪れるように。
が、やはりそうであっても、意志としてそうであろうとしても、富野のココロとか、意志とは裏腹に物語には次々と他者が生まれ続け、争いは永遠に永劫に続いていく。
そういうニュータイプ同士の殺し合いという矛盾の中で、徐々に富野の前提とする世界観の崩壊と抱えた破綻があらわになっていく。
皆殺しというが、私にはそれが良くわかる、世界が崩壊するにつれて、まるで世界の悲鳴のように登場人物がすり潰されていく、富野は他者を普遍化して取り込もうとするが、その意志は富野自身によって裏切られ続けていく。
その過程で、悲鳴のように人が死ぬ、争いを終わらせる為に死んでいく、そうしなければ他者が消えないから争いは終わらない。
なぜなら、その原因は結局富野がニュータイプを他者としてしか捉えられていないからだと思う。
だからそれは悲劇であり、人間らしい、といえると思う。