ゲド戦記とか背負って渦中に飛び込んだり。



まあ、多くの人間はそこまで暇でもないし、というわけで報告等。


宮崎五郎の「ゲド戦記」を見に行く、客入りは上々といった感じ。
ただ、実際は「MI3」も選択肢に入っていたがMI3の方が最後まで満席状態だったのもあってゲドに座ることになった方も多いかもしれない。
実際、連れ合いはMI3の方が見たかったといっていた。


大都市のど真ん中という生活圏内から離れた立地もあってか、客層は比較的年齢層が上のように思われる、小学生も数人見かけたが東映アニメフェアやゴジラ状態とは程遠い。
これも一重にスタジオジブリのやってきたことへの評価であろう。


さて、内容であるが。
私が原作を読んだのは小学生の時、しかも「帰還」までしか読んでいないので、その後物語的展開が大きく変わったとのことだから、原作との違いをことさら挙げることも出来ないのだが。
無論、もともとあの物語を映画の枠内に収めるには最初から無理がある、それを言い出すとキリが無いし意味もないだろう、ゲド戦記という世界観を拝借した別の物語と考えてよい。


映画としてみた場合、例えば作画と物語を分けても仕方が無いし、音楽と映像を分けることも出来ない。
そういう意味でも、そんなに悪い出来ではない。
もはや、ゲド戦記とは批判する為に見に行くようなものであるから、そういう意味で気合をいれていたのだが。
対象年齢とかそういう製作者の意図を汲み上げていくと、随分奇怪な作品であるが。それでも例えば自分の子供を連れて行こうとかそういう気にはさせてくれる。
つまり子供は、作画は過去の遺産だからとか監督は七光りで偉そうだ、とかそんなことはどうでもいいからだ。


では、そういう情報に無意味に踊らされた大人が観ると。


根幹としての主張は表面的には「命の大切さ」を訴えているのであって、別に命の大切さを訴えて悪いというわけではないのだが。
問題は「命の大切さ」を「命の大切さ」という言葉の範疇でしか表現していない点であり、その表現を強烈に前面に押し出してくるのでいささか説教くさい。
背後関係も何もわからないまま登場人物に必要とは思えない場面で命やらなんやらと声を大にして言われてもダダ滑りである。
だれもそんなこと聞いちゃいないのに、というやつである。


また演出的にも、無駄に過去の宮崎作品と似せようとしているのか、どこかの宮崎作品で見た映像を無理に挿入しているのが目に付く、どうしてもその演出で無いといけないのか?と疑問に思うし、はっきり言っちゃえばそれらは私が目にした限り邪魔だった。


物語的に整然としない面があって、主人公が何をしたいのかという前提がまず彷徨っている。
もののけ姫的に主人公の立ち位置が彷徨うのではなく、主人公の人格がかなり制限されていて、ついて来いといえば誰でも付いて行くし、出合った相手が若い女という属性であれば恋も何もすっ飛ばして愛に陥るような。まあRPGの主人公みたいな奴である。
敵役にも同じようなことがいえる、果たして何がしたかったのか、主人公を捕らえてどうするつもりだったのか?結局異常者という範疇で語られ、敵役であるという前提がなければ全くの謎の人物になる。
ゲドも行動指針が不明瞭である、一体彼の旅がなんなのかという疑問は物語序盤で家に帰ってしまうことで達成されてしまうから、その後は彼自身の抱える問題の所在がかなり薄くなる。


そういう点を踏まえて、というより。
それだから、というべきか、奇怪な作品になっている。
ここから全面擁護にでるから読みたくなければここまでで帰ったほうが良い。


まず、主人公の声優である、かなり上手い。上手すぎて唖然とするものがある。
単に上手いというより、ゲド戦記という作品の根本を理解している。おそらく主人公をかなり深い段階で理解しているように思う。いや、他の作品ならそういう偶然の一致もありうるかも知れないと思うが、この奇怪な作品の奇怪な主人公においての話である、もし、これが千載一遇の偶然でなければ、岡田准一、侮りがたし。
これは誰もが感じるんじゃないかと思うが?


次に、作画。
非常に高レベルである、誰が見ても納得できる、最悪背景を見に来たと思えばよろしい、映画館の大画面で見れば申し分ない。


最後に、宮崎五郎のやりたかったことと出来たことに随分齟齬があるが。
幾つかの部分でかなり納得できるものがあった、先にも書いたが、いくつかの表現においては言葉の範疇でしか物事を捉えていない面があるが。それはニヒリズム穿った見方であるともいえる。
何もかも皮肉ればいいというものでもない。逆にそちらの「誰も彼も灰色さ」という高みからの下卑た笑いのほうが意地汚いという捉え方も出来る。
監督の若さというものかどうなのかはわからない、ただ、正しい言葉で押しても良いように思う。
くどいばかりに繰り返し、押し切ること、皮肉に逃げないこと、格好をつけないこと、言葉に疑問を持たないこと、そういう態度には素直に好感が持てた。


もう一つ、五郎の「影」への描写の仕方が非常に印象に残った、もちろん影は死で光が生という神話的二分立が根底にあるのだが、その描写の仕方である、奴が来る。という描写にはなんともいえない迫真的なものがあった、これは、実際に見ても皆が私と同じように感じるかどうかわからない。
気味の悪い満天の星空の映像、延々と続く湿地帯の映像、もっと言えば、斜陽の世界観。
これは父が持っていなかった世界観のように思う、この静の世界観はやはり我々の時代の痕跡があり。
その部分を丁寧に追っていくと、全く違った様相が現れるのではないか。
それこそ、影のように、である。


だから、主人公は結局のところ最後まで精神を病んでいて、ヒロインを殺したいんじゃないのかという疑問は最後まで残る。
つまり、敵役のクモはある場面、ある台詞から主人公の裏返しに成り代わるから、その後のクモの台詞は主人公の影の台詞であり主人公そのものに成り代わる。逆にその瞬間から主人公は希薄になるってしまうが。
人形のようによくわからなかった敵役に生命が宿る瞬間であった。
それ故クモの末期の描写もまた真に迫るものがあり、女性像に圧倒され燃え尽きる様は、自害に等しい行為、無目的にただ異様である。
だから、ヒロインに抱きしめられて主人公が救われたというダダすべりの描写でなく、クモという影を殺すことで救われる、ある種の倒錯した自殺描写がこの映画の根源にあり、自殺という範疇においてヒロインを殺したいという欲求が立ち現れてくる。どうもここらへんがこの時代の痕跡となっているように思う。
結局、局地的な物語は収束は無難に成しているが、五郎的にはどうなのだろう?
ある意味自我が自殺したような作りである、彼の深遠はもっと深い気がする。
なんども言うが、この映画、言葉は単純ダダ滑りだが、その実内容はかなり奇怪であり、問題作と言っていい。
私は駄作とはとても思えなかった。



だから、といってはなんだが、観いってみてはどうだろうか?


ちなみにレビューの方は酷いことになっている、何が酷いかというと。


こちらのサイトで見てくださいな。
まあ、多分に賞賛と批判にさらされる運命の監督である、それでもこの有様は無いんじゃないかと思う。


バッシングというのはあるだろうが、擁護だのなんだの「好評化はすなわち工作員」とかそういう範疇で物事を二分するやり方は、よほどあんたらの書いたうんこレビューと変わってないじゃないか、という気がする。