愛情分水嶺指針



一般的に愛情とは善である、正しい感情である。と言われている。
これはおそらく多くの人間が納得してくれるのではないかと思う。


愛情はどのような場所、時代においても同じように肯定され、憎悪や敵意はどのような環境においても万国共通に否定される。と現代の価値観ではそう規定されている。
人間の精神には善とか悪とかそういう分水嶺があって、愛情なんかは我々の社会では手放しで善に位置している。
それがどうしたと言われれば、どうということは無い。
世の中には奨励される感情と、抑圧される感情とがある、と言うだけである。


で、愛情には恋愛、友愛、親子愛とあって。
特に子供を愛する親の愛というのは限りが無いというし。
最も美しい感情とも言われている。
友愛が常に打算を含み、恋愛が公共物の略奪を背後に抱えていることを考えれば、それも当然かもしれない。
だが、実際には物事には限度とかそういうものがあるようにも思うし、表現の仕様にも人それぞれという現代の価値観が存在しているのだが。
果たして、親が子を愛するという感情はここまで発露しなければならないのだろうか?


このような形で。


Yoshida Takeshi君に幸あれ。


だが、探してみると結構そういうものがあったりするからわからない
私にはいくら自分の子供がかわいいからといって全世界にその姿を公開する度胸というか覚悟というかそういうものは持ち合わせていないし、それがどういう意味を持つのかさっぱり共感できないからから表現者についてはなんともいえない。


だが、そういう愛情の発露という極端な結果に唖然とするものがあるし。
どうしてくれるこの気持ちというか、なんともいえないものがある。
いや、もちろん自由である、好きにすればいいことだ、他人がとやかく言うことではない。
むしろ、愛情以外の要素が無いという類まれなる善の方向性しか持っていない、だから、というかなんというか
それでどうだと言われれば、こういう現実に反映されるというだけのことなのだが。


その先にあるのはこういう結果である。
そして類形があるだろう、あってもいいのか?という問いも含めると。
単純に愛情は善い感情だということは私には思えない。
ここで私が言いたいのは彼らの行動の是非ではなく発露と言うこの現状がアリなのかナシかというただそれだけだ。


かといって、何がいけないのかと言われれば私には言葉が出ない。
屁理屈はいくらでも思いつくのだが、その言に原則があるのかといえばはっきり無いといえる。
この問題は電車の中でどうのこうのというルールとかマナーの問題からも上手いこと乖離している。
現実社会のルールもマナーもこの現状を救い上げる機能を持っていない。


では、お前はこの現状を認めないのか?
と言う問いに、諸手を挙げて「認めよう、じゃんじゃんやりなさい。」とは言い難いからややこしいのだ。


私のある部分においてはこういう発露はいかんよなあ、と、心が鐘を鳴らす。
だが、同時に好きにすればいいんじゃない?という原則部分もある。
問題はその分水嶺が不可視の領域で変化しつつあるのかなあと言うところだ。