天国の怪談



つまらない話だが、怪談が怖くなくなったのはいつからだろう?
昔は風呂場や便所が怖くて堪らなかったというのに。


怖い話というのは丁度日常と非日常の境界に存在する物語で、結局の何が怖いのかといえば具体的な死とか血ではなく、不明瞭な原因という不可避であり、救済不能の恐怖であったと思う。
それは例えばサイコとホラーの違いといってもよく、同じ恐怖という名でも実際には質が違う。
事実、都市伝説や怪談はその物語自体は意味がわからないものが多い。


口裂け女なども出現した当初は目的も意味も何もわからない謎の妖怪でありそれが恐怖の源だったが、徐々に様々な由来の説明がなされるに及んで、恐怖の対象としての寿命を終えていった。


この頃の話としては、「くねくね」があるが。
実際にはネットで盛り上がり始めたとたんに探偵達が次々と現れて物語を解明し分解して寿命はすぐに尽きてしまった。
だからご存知無い方も多いのではないかと思う。
もともと、物語があれ以上広がりようのない構成でもあるし、先が見えていたともいえるが。


恐怖は不知から立ち現れる。
怪談はその舞台裏が明かされればその寿命を終えるのだ。
当たり前の話だが。


話は変わって、
現代は説明の時代である、行動や行為や発言の前提において言葉による明確な説明が求められている。
アメリカに代表される行き過ぎとも思える言語化の世界がこれからこの国において立ち現れると思われる。
それはアメリカにおいての人種の違いではなく、ポストコロニアムにおける価値観の多様化というわざとらしいしかし不可避な個性の違いから引き起こされる。
あ、そういえばネット社会は多分に言語化の枷を背負っているな、まあそういう現状が善い悪いは別にしても。
これから怪談という不知の物語はますます生きにくい世代に突入するだろう。


例えば、口裂け女という怪談が存在したとして、その物語をどう提供するかといえば。
怖い話があるという虚構の文脈で語らなければならず、そういう前提ナシに物語を提供することは許されていない。
そういう意味で怪談は半分「死に体」で提供される。
口伝という範囲内において多分に含まれた曖昧さは、現代の社会では成立しない。
我々はそういうのは認めてはいけないのである。(当たり前だが。)


この枷は年々厳しくなってきている。
曖昧さの排除というリスク管理からノストラダムスやUFOはとっくに死し、今は細木数子が一人踏ん張っているが、あれはもはやネタとしては保守の宣伝塔となっている。
占いではなく、思想とか宗教の類である。(まあ、線引きがあるならアウトだと思うが。)


そういう意味で私達は虚構の枠組みにおいてしか曖昧さを語ることが出来ず、口伝というネタですらネットに担保されようとしているのだ。
それを思えば大体の現実的思索がネットに担保されつつある今、我々が抱えている不知の領域の物語はどのように消費されるのか?
今後の動向が気になるところである。


実を言えば私には幾つか思案があって、(ここから先は私の妄想。)


物語の消費の仕方が変わる。
例えば牛乳が危ない
といったほとんどこちら側に足を突っ込んだ形で不知の物語が消費されるのではないか、つまり専門に特化した分野の情報はこちら側の物語であっても、我々にはもっぱら不知であるからだ。
そういう範疇では太平洋沖地震という神話もその類に入ると思われる。