バックラッシュという反省会



バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
二日で読了。こういうむやみに分厚い本を短時間で読みきることができるのは幸せだ。
そういう体力があると自認できるからだ。
といっても目が悪いので注釈はパスしたが。(字が小さい!)


まあ、話題としては少々後れを取っている面もある。
一つ一つ丁寧に追っていってもいいのだが、全体的な印象。


ジェンダーフリー運動とはなんだったのか?
ジェンダーフリーという言葉の半生を巡るジェンダー論者達の反省会。
といっていいと思う。


ジェンダーフリーはその言葉としての寿命を終えたのだろう。
そして、その運動家達はその短い生涯の間にやるべきことをやらなかった、それがいまバックラッシュという形で噴出している。
ジェンダーフリーが一体どんな思想を背後に持って進められた運動なのかはっきりしなかったことが根本にある。
ありがちな話だ。
少数派であるうちは問題列挙に奔走すれば良かったのだろうが。


混乱の様相は、権力の座に立てなかったジェンダー論者と権力の座に立ったジェンダー論者との間にも齟齬を生んでいることからも明らかである。
実際、この本でも「バックラッシュは一部の極論を槍玉に挙げてジェンダーを攻撃している!」と何度も主張がなされるが、では極論で無いジェンダフリーとは一体なんなのか、どうなることなのか具体的にジェンダーフリーなのか?誰にもわからなかった様だ。
結果、差別と差別を生む構造とが論者の中で分離出来ず。
ジェンダーフリーという言葉を制御し切れなかったためバックラッシュを生んだ。
端的に言えば付け込まれた。
その甘さを置いてバックラッシュと名をつけて満足し、「バックラッシュだから」という言い分は、それはバックラッシュが行っている攻撃方法と対して変わらない。


例を出そう。
ジェンダフリーの問題点は少年ジャンプに少女漫画が載っていないことが問題なのか、少女漫画を読む男の子が恥ずかしいと感じることが問題なのか、そのどちらを論じているのか傍目から観てごっちゃになってしまっていたことだ。
そして、後者を議論の中心においたことで本論が空回りしてしまったことだ。


差別は存在するのに差別より先にジェンダーを失ったことによって。
殺されるのは女性ではなくあなたではないのか?という疑問に答えることが出来なくなったということも問題だった。
(これは山口智美が自著とバーバラヒューストンとのインタビューで触れている。)


それに教育現場を変えれば子供が変わり、社会が変わるという布教的な方法論もは正しかったのだろうか?
それは方法論が多様になることで当事者が混乱し多くの失敗を生み出してしまったことが挙げられる。
頭の無い兵隊はろくなことをやらないものだ。
フェミニストだからといって即ち善人ではない。


興味深いのはバーバラヒューストンはジェンダーフリーという言葉がホモセクシャルなどの同性愛者に使われることを「危険だ。」と発言している部分である。
ジェンダーフリーは性差を無くすことではなく、あくまで男女が共存する社会の理想として存在しているのであってその文脈においてのみ使用されるべきだという意味だろうが。
ここらへんの微妙な文脈の違いが今更になって説明されるというのはいかにも、今まで何もしてこなかったのか?と言いたくなる。


今更女性から参政権を奪ったり、男系社会を再構築しようという酔狂な輩はそういない。
だが、それらは勝ち取ったものだ。
その経緯がある。
だから宮台の言うように、不安に感じやすい(モテない)輩は、ジェンダーがどこまで行くつもりなのか永遠に続けるつもりなのか?誰も説明しないので不安になったのだ。
誰も説明できないので「それは曲解だ!」と声高に言っても不安は解消しない。
そして、ジェンダーフリー論者が幾度と無く引き合いに出す「歴史教科書を創る会」に代表される保守勢力はその流れに乗っただけで実のところ、引き合いに出すほどのものでもないのではないか?


実際のバックラッシュジェンダーはどこまで行くのか、どこに行くのか、という一般人(モテない)からの疑問である。
予算の裏側についても触れられていたが、10兆円もかけて何も出来ないのか?という疑問には「10兆円もかけていないから」ではなく、「後○兆円で筋道をつける」と言うべきだ。
ここでの疑問は10兆円が無駄だった、ではなく、後いくらかけるつもりなのか?
という不安感からくる疑問だからだ。


私個人の感想。
宮台真司山口智美が面白かった。これは読物として。
宮台教授はとても面白いことを言う人だし、祭りの必要性についてはとても同意するけれど、それって端的に戦争のことじゃない?と思いますが。
また、バックラッシュ側が用いる科学が似非かどうかに関しては私には判断しかねる。
染色体は置いておくとしても、特に男性脳、女性脳に関しては簡単に判断できないものがある。
「ブレンダと呼ばれた少年」について、私ははっきりジェンダフリーの弊害であると思う、ジェンダーフリー論者は恐らく、もし、この実験が成功すればこれを大々的に宣伝するつもりだったに違いないからだ。
著者小川エミはその誘惑を捨て切れていないのだろう。幾分混乱した記述が見られる。
どちらにせよあの実験は悲劇を生み、この結果という現実は直視しなければならない、そうでなければどこまでやるのかというバックラッシュな疑問には答えられないからだ。
教育論に関して、私は無理に改善する意味は無いと思う、そういう草の根的な運動は中央がしっかりしてからやるべきだと思う。
頭の無い兵隊はろくなことをしないものだ。(皮肉ね。)
男でも女でもない純粋な子共という幻想をはらんだ教育論(これは社会体制が子共に与える影響を考慮していないという意味で。)よりも、社会構造(法律とか制度とか)からではないか?(これ私の考える優先順位ね。)


これくらいで、止めておこう。
バックラッシュには確かに荒唐無稽な言説が多いが、荒唐無稽なものが受け容れられるというとうことはそれだけジェンダーフリー運動が行き詰まっているということでもある。
あと、ネット問題は正確にはバックラッシュの文脈ではない、本心はともかく、ネットを批判するだけではなく利用してやろうと考えなければ。
ネットはなくならないし、利用してやろうと考える輩が増えれば増えるほどネットはその音論や思想、世論としての力を失っていくのであるから。