勧善懲悪は悪いのか?



だいたいの大作ハリウッド映画に関して一くくりに言われるのだが。
勧善懲悪という物語の方式はそんなに悪い物語のだろうか。


たしかに世の中はそんなに単純ではない。
悪い奴を殺せば解決、という物語の構造が浅薄で受け付けないというのはわかる。
実際、現実世界に勧善懲悪という言葉をそのまま移行させると、全体主義とか、多様さの否定とかそういう文脈で否定されるだろう。
(さらに厄介なのは、そういう多様性が現代のモラルハザードを生んでいるという主張さえも多様性という枠内で語らているところである。)まあこれは予断だ。


勧善懲悪が否定される理由。
私は、結局のところ「武力が全てを肯定しているから」という面で否定されているのだろうと思う。
つまり、平次や将軍様は最後には圧倒的な剣術で有無を言わさず相手を切り伏せるからヒーローなのであるが。
「正義は勝つ」が「勝った方が正義を名乗る」という文脈で受け止められ、
敗戦という非常に渋い体験をたどった日本人には手放しで受け容れられないのだろう。
しかも、あえて言うなら、将軍様も勧善懲悪の枠内ではないのでは?と私は思っている。
これが主題。


日本に昔からある勧善懲悪といえば桃太郎である。
桃太郎という異界人が交渉不可能な外部である鬼を撃ち滅ぼすという形態の物語は非常に勧善懲悪的だ。
「インディペンデンスデイ」や「パールハーバー」に見られる勧善懲悪という方式は桃太郎サーガ的である。


逆に悪徳庄屋を打ち倒す将軍様は腐敗した内部を制定する賢王の像である、そういう意味では勧善懲悪ではあるがその意味性に少しばかし差異が見られる。
こちらの取り方では外部が無い。


私はこの違いは結構大きいのではないかと思う。
我々が勧善懲悪だと一元的に嫌っているのはもちろん前者の物語である、桃太郎的なサーガである。
カミカゼや鬼畜米英がそれである。
戦争の由来として語られてきたのはこちらである。


では、全体主義とか多様性の否定という恐怖の代名詞のような言葉はどちら側に拠っているのか?
これは後者である、我々が正しい政府とか、正しい権力とか、あるべき社会とかそういう言葉で根拠を与えているのは後者の善である。
内部に向かう修正の力である。


別に、左とか右とか言うつもりは無い。現実的には前者も後者も同意として取り扱われる。
具体的には反米で、反共であり。オブンズマンであり、検察組織でもある。
だが、勧善懲悪という言葉には微妙な違いがある。ということ、ただそれだけだ。


そして、私の印象として、我々の社会では後者には嫌悪感を持っていないという実感である。
内に向かう勧善懲悪は概ね肯定されている。
抵抗勢力とか、社会保険庁とか、在日とかそういう文脈である。
対して現実的にダルフールや、例えばイラクイスラエル北朝鮮なんかの問題に具体的に手を突っ込むことは良しとはしない。
なぜならそれらは桃太郎的な勧善懲悪であり、現実的に算数の世界であり、つまり武力のパラメーターが高い方が勝つのであり、「勝った方が正義を語る」というのは過去の実感として間違っていると感じているからだろう。
国際問題を語るには国連という枠内に一旦置いて、桃太郎から将軍様的物語に変えるしかない。


だが近年、少しずつ状況が変わりつつあるようにも思う。
本来的な勧善懲悪という前者の意味合いを少しずつ変化させているようだ。この場合の交渉不可能な外部とはこの場合「反日勢力」である。