確かに、欲しい欲しいとせがんでいるうちは子供だ。



ある作品、まあ、映画でも漫画でもいいが、そういう文化的ものが落ちてくる、貰える、いろいろあるが。
概ねそういう無邪気な感性は概ね子供の感性だ。
もちろん子供の感性が不必要だというわけではないが。


だが、大人はそう思っていても口に出すことはしない。
よくあるのが、「〜を殺さないで。」とか「原作のイメージを壊さないで。」とかそういう言葉である。
もちろんそれがまずいわけでもない、そういう感性は尊重される、だが言葉として作品と向かい合うとき。
それは、餌にしかならない。
自身の感性のみが作品の折衝点という脆い武器しか持たないというのは作品という暴力に対して常に下部に置かれるしかない。あまりに貧弱なのだ。


良く誤解されている、というか、はなっから理解されていなかったりするのだが。
作品というのは暴力であり、力である。
あなたのこれまでの人生を破壊し、あなたの人格を変え、あなたの貴重な時間を奪い、あまつさえ金銭までも。
そんな、極めて暴力的な作品に向き合うのに、あなたは感性しか武器を持っていない。
それは、不利である、圧倒的弱者の立場におかれているといってもいい。


そんなことにも気がつかずに、「好きだから。」という裸一貫で果敢に立ち向かっていけるのは餓鬼だからだ。
そんなあなたには暴力的な洗礼を受けるしかない、一生その作品の下部に置かれることを運命付けられるか、トラウマになって語ることすら出来なくなるか、である。


少し手前味噌というか、知ったかぶりだが。
芸術の本場(馬鹿馬鹿しい言い方。)。アメリカでは言語化がそれこそ必然のように求められるといわれている。
ある作品に対する自身の立ち居地を明確に言葉として表現する作業を繰り返し、その繰り返しによって作品と自分とのコミットに明確な部分と曖昧な部分を選別し、曖昧な部分は全てノイズとしてしまう。
このノイズの部分が日本人にとっては大事なのだよ、とかよく言われているのだが。
まあ、少なくともなにが自分にとって大事なのか、それが言葉に出来るものなのか、出来ない種類のものなのか、作品と向かい合うときには頭の墨においておいた方がいい。
少なくともそういう弱点ぐらいは知っておかないとならない、と私は思う。
好きなのは解った、むしろ誰よりも自分がわかっているはずだ、だからそれがその作品とどういう向き合い方をしているのか?という問いは担保されるべきだ。
僕はロボットが好き、ロボットは自分を増幅させた力の象徴、だからロボットが好き。
ぐらいでも別にかまわないと思う。
そのうち、手法や技術に行き当たり、表現の違いが気になるかもしれない。


裸のままで一度脳髄からヤラレルとなかなか帰ってくるのが難しくなる、そしてそれに気がついていない場合、同じ弱点を無制限に衝かれてしまうことで延々と同じことを繰り返してしまう。
同じ接点でしか作品に向き合えなくなる、簡単に例えるなら「巨乳好きが、巨乳以外は女ではない、となってしまいどんな女の子に向き合っても、巨乳じゃないからあの子はダメだ。」とかそういう状態になってしまう。
自分と巨乳の関係を上手く言語化出来ないからである、私の経験上、たいていの巨乳好きは母親が巨乳であるように思う。
存在する暴力との関係性を形作る時、言語化はある程度有効な手段である。
それは自身を守る鎧となるだろう。
もしかしたら本質的にはヨーロッパのように物質感、存在世界での勝負の方がいいのかもしれない。
よりタフになれるとは思う。
私はヨーロッパ独特の圧倒的な物質感は世界の異常事態としてしか捉えることが出来なかったが。


言語化は陳腐に値する」それも確かにわかる、あらゆる表現は語るに落ちる。
だが、自身が語る言葉が陳腐であるということは、陳腐な認識力しか持っていないということだ。
自覚はしていますよ、ええ。


ま、そこから先は、一作品とのガチの勝負である、のるかそるかというところだ。
そして、この世界の怖いところだが、本当に暴力的な作品というのは事実あって、そういうヘビー級にぶち当たると大抵やられてしまう、もう、どうしようもなく矢も盾もなくやられるのだ。官能的で、物質的で一期の出会いだったりもする。だが、そういうのは概して自身の感性とは全く違ったりするのだから、世の中は面白いものだ。