いじめにもルールがあったりする。



正直、イジメという話題に対してわたしが言うべきことは無い。
イジメはやってはいけないそして、悪い行為であるということだ。
ま、当たり前の建前である。


で、本題。
誰もがイジメが悪い行いだと知っている、イジメ万歳とか言えば非難もされるだろう。
だが、イジメにも良いイジメと悪いいじめがあるといえばどうだろうか?
ここで多くの読者(そんなものがいればだが。)がそんなアホな、とおっしゃると思う。
しかし良く考えてみて欲しい、私たちは私達なりに異端者を効率的に排除する技術を身につけている。
具体的に言えば、解雇とか、懲役とか、ま、そんな言葉だが。
私達の社会が行なっている行為はある面ではイジメに非常に似通っている。
しかし、そうそうイジメだとは誰も思わない、闘志を燃やしているとすれば共産党員や宗教家ぐらいである。
何故なら、やっていいとされるある種のイジメは我々のルールに沿っているからである。
共産党員や宗教家はこのルールに戦いを挑んでいる、もちろん彼らの社会が到来し、彼らのルールが履行されればその枠内でいじめが頻発することになるだろうが。
我々の社会では我々の社会のルールに沿って行われるいじめをイジメとは呼ばない、むしろ当然の行いとされる。
イジメにも二種類あって、やってよいイジメとやってはいけないイジメがあるってことだ。
だから現在、過去、未来、脈々と世界中の学校で行われているイジメに対して、イジメという行為自体を取り締まっても意味が無い、子供社会には我々大人社会とまるで違ったルールがありそのルールに沿ってイジメが行なわれていると言えばわかりやすいだろうか。
イジメにはその背後にルールがある、彼らには暴力を行うもっともらしい彼らナリの理由があるのだ。
イジメを無くすにはそのルールを変えるしかない、子供ルールに変わる大人のルールを申し渡すしかない。
具体的に言えば学校に派出所を置くとか、問題児はさっくり退学させる、とか。


みのもんたは確かに正しい、だが、彼の言っていることは的をはずしている。
子供にも正義があり、みのもんたにも同じように正義があるだけだ、正義で正義を駆逐するにはどちらが正しいかということは問題では無い、どちらが力があるのかということだ。
そこを語らないといけない。
簡単に言えば大人を舐めてはいけない、粛々と問題を処理するシステムを舐めてはいけない、ということをわからせるしかない。
そうやって、我々のルールに沿って問題人物を駆逐していくということだが、それが我々によるイジメかといえば、そうかもしれない、しかし、大人の70パーセントぐらいがイジメだと思わなければ大体においてそうたいした問題ではない。