作ること、批評すること。

このエントリより、関係ないけど思ったこと。


芸術を目指すもの、あるいは他人に自分の一部を切り取って売る行為を生業として目指す人間にとって、批評とは避けて通れないものである。


過去、様々な芸術体系が組まれていたが、まあ絵画史を例にとってみよう。(かなりむちゃくちゃなまとめ方をしている。)
絵画史といっても、実際のところ画家が絵画史を作ったわけではない、現代に通じる絵画の根とも言うべき道筋は当時の批評家が打ち立てたといってよい、画家はただ絵を描いていただけだ。


今風にわかりやすく説明すると、2CHのレスを書く人間とまとめサイトの関係が適切だろう、有象無象のスレ、レスの中からきらりと光るレスを見つける、あるいは、ひとつの騒動のまとめをわかりやすく提示するというような、それほど単純ではないにしろ印象派以降の1950年代までの画家と芸術家の相関関係はそのようなものであった。


ある人間が登場するまでは、と、書くとまた大げさだが。
しかし実際に変革が起きた。


批評家と画家の立場がこれまでと変わったというのは、単純に立場が逆になったということである。
すばらしい画家を評価する批評家がすばらしいという世界観から、すばらしい批評家が評価する画家がすばらしい、といつの間にか変わってしまった。


この状況が絵画界に何をもたらしたか?
批評家が芸術家に道を示し、芸術家がその後を追うようになったのである、アメリカで実際に抽象表現主義がの旋風が吹き荒れたのは何故だったのか?グリーンバーグがいたからだ、彼が次の時代は抽象表現の時代だと理論によって道を示したからだ。
結果批評家が道を示すことによって、抽象表現主義の波が実際に起きてしまった。


これも今風に解釈するなら、マスコミが今流行の〜と報道することで、嘘でもその〜が流行ってしまうと言うような状態を思い浮かべてくれ。(実際は何処何処の会長が言ったが正しい。)
このスレは〜に載る、だから編集者の好むレスをつけるとかそんな感じ。


グリーンバーグ・ローゼンバーグがどのような理論体系を組んでいたかは著書を読むとわかりやすい、今見るとあれだがこれはこれでとても面白い。実際ポップアートが出てくるまで彼の理論は疑うべくもなかったのだから。


が、結果的に彼は批評家でありながら芸術を先導した、悪く言えば煽動した。
芸術文化が作品から始まらなかった初めての例であり先駆者であるとも言える。
この時代、芸術家は端的に言えば自主性を失ってしまった。
確かに優れた作品を残した作家も存在したが、結果的には失敗として認識されている、現代芸術の混乱の一因とも言言われている。


抽象表現騒動はポップアートの登場によってやむ終えず解消されたが。
実際のところ批評家にとってこれは禁断の果実として記憶に残っている、作品を批評することによって作家の方向性を左右する、批評家の権威が高まるほどその果実は甘く、甘美な響きである。


話は大きく跳んで。
現代はどうだろうか、大衆が最大の批評家とも言える現代において、芸術家とはどうあるべきなのだろう。
芸術は作品にその根を張っているのだろうか?


あるいはかつての抽象表現主義のように、最大の批評家であり消費者である我々は、芸術とは大衆の指し示すものを造ることと。我々の要求に当たり前のように答えるのがすばらしい芸術、答えるものだけがよい芸術だとしているのではないだろうか?
そうして芸術性を著しく損なわせているのではないだろうか?


うーん、なんだか、よくわからない文章になったのでここら辺で乙。