■ハレ晴れユカイが5位だそうだ。

ふーん、といった感じだが。
ネラーどもがやる気になればまあ、それくらいは当然だろう。
問題の「ファンの力で勝ち取った5位」というあたりがポイントかな?


オリコンも「コアなファンでなければ買わないよ」という存在しない対比を置いてくるあたり、突っ込みも一塩だろう。
ファンでない人間がCDなど買わないのであるからね。


こういう鈍重な権威を見ていると確かに笑いを誘うし。
オリコンとしてはアニメソングは余り望ましくないんだろうなという印象はたしかにある、が。


しかしだ、
ここらへんがアニメに犯されてはならない領域なのだろうか?(宮崎は除くとしても。)
というか、オタクが攻略すべき相手なのだろうか?
私にはわからない、そもそも「ハレ晴れユカイ」をオリコン一位にしようというオタクたちの姿はとっても権威的で悲劇的だ。
まるで、むやみやたらに突撃を繰り返す人民解放軍の馬さんや超さんといった感じがする。
目的がはたしてなんなのか、それが達成されたからどうなのか?といったところが全く不明であるのに、どうにかして、CD買って、スレに書き込んで何かしら訴えねばならないのか?私はそれは悲劇だと思う。
どうしてだろう?


いや、確かにCDを買うという行為自体はなんの瑕もなく正当行為である、好きならばけば買えばよろしい。
しかし、ハピマテにしてもそうだが何の目的があって紅白に出したいなどと考えるのか?それがわからない。
いや、私自身としてはどちらでもよいのだが。紅白にハピマテが出て、だからなんなのだ?
それを教えて欲しい、ハレ晴れユカイオリコン一位で一体何が起こるのだ?
誰か教えて、エロい人。


まあ確かに、権威に立ち向かう弱者という姿は過去にもたくさん見られた。
かつて雑音と呼ばれたセックスピストルズも、破廉恥で聞くに値しないといわれたスウィングもいまや立派な文化である。
そういう意味でアニメソングが反権力のイコンとして認められることを目指しているのだろうか?
とてもそういう意図では無い様に思えるが。


ん?待てよ。と。


反権力の象徴として、アニメなるもの、オタクなる物は結構良い線いっているように思うぞ。
萌え絵を下地にしたアンダーグラウンドならぬ、アンチ既存価値としてのイコン。これほど多元的な意味の含まれた創造物は日本に存在しないように思う。
ヒッピーならぬオタクという文化がある種のポスト団塊世代的な価値観に対する一つの答えであるようにすら思えてきた。うーん、今日の私は壮大だ。


そんざいしない女性、そんざいしない兵器、そんざいしない少年。
そして、そんざいしない自分。


アニメにおいて自己(人)の不立脚に依存する世界の再構築は、現代社会の抱えるマスにおいての自己(人)の不立脚に依存する世界の再構築にすんごく似ていると思う。
自分がいない人々というマスの群像は、投射されるだけの対象であるアニメの世界にとてもよく似ている。


そう考えてみると、やっぱりオリコンに挑戦するという世界観はとても面白い、オリコンという世界に自分は存在しないので、そりゃ意味わかんないよとなるのだが。
そうやって自分の存在しない世界を認めてもらうことは、逆に何にもよらない自分自身を認めてもらうことになる。


私もマスに存在する自己をどこまでも薄めていきながらも、その存在しない自分を認めて欲しいという気持ちはわからないでもない。(何せここで下らない日記をつけているのだし。)


どこまでも自分を透明にしていく作業は逆に鮮明に自己のみを明確に浮かび上がらせる作業になるのだろう。
特に企業に代表される自己を埋没しつつも自分の能力だけを表現し、それが貨幣という形で評価される集団に対しての反逆として。好みとか趣味とか言葉とか、まったくの自分自身をダイレクトに投射するものに向かっていくというのは非常に面白いと思う。


まるで、自分を除く世界への明らかな敵意のようだ。




追記:「アニメソングだから」という差別や偏見に立ち向かうオタクたちの姿はBROも認めて欲しいと思う。