■こんなところで初心表明。

実は、というかなんと言うか、
自分のはてなIDでコメントすると簡単に日記まで辿れるんですね。
とても便利な機能だと思うが、これではこれで、とてもうかつにはコメントできないのでは?恥ずかしいのでは?では?では?
というのも、私が連日ネットアイドルの真美ちゃんのはてなダイアリーに足繁く通っていて、悪質なスト―カかと思えるような粘着質な愛のささやきを10分おきに残しているからである、とかではないのだが。


しかし、単純に考えてもなかなか胡乱な世の中になったものである。


で、今日の本題だが、世の中の人間は大げさに言って二つに分けることが出来る、つまり主張しなければならない人間と、そうでない人間だ。


この訴えたい欲求を持つ人間というのは私も多分に漏れ無いのであるが、要するに現状に対して自分という存在が不充分だと感じているのである。
これが案外困ったもので、十分であるそのままの自分(現実の自分)に満足できないが故に自分ではなく「自らの状況」が不充分であると思い込み、その思い込みによってさらに深い泥の中に沈んでいくという、巷でよく言われる悪循環「根暗の輪」と言う奴である。


そして、なぜ自分を取り巻く状況が十分でないのかというと、そういう輩は現実に自分が居ないからというわけだ。
自分が希薄であるが故に、濃厚な現状に苛烈な不満を抱くのだが、彼等は現状に己をあわせようとは考えない。というより、己が現状に生きていることを認めようとしない。


というのもそれは当然で、ここで十分な現実を認めてしまうと希薄で不十分な自分というどうしようもないガラクタだけが残ってしまうので。なんとしても、不十分なのは現実の方であると考えるのだ。
それ故、そういう輩は常に現状に高いストレスを感じつづけ、何故自分にストレスをかけたりするのかと躍起になり、他人に共感ができないというマイノリティ特有の重大な欠陥をすべて他人に押し付け始めるのだ。


ならばどうするのか?多くの人間は現実を変えるか、自分を変えるかという極限の二択を迫られ渋々ながら筆を折り、下らないプライドをへし折って自分を変えていくのであるが。そうもいかない人間もいる、どうしてかは分からない、本当にどうしてかはわからないのだが、自分を変えるにしてもその設計図が思い浮かばないという哀れな者たちがいる。


ここんところが重要で、彼らはどうにかして現実に自分の居場所を探そうとするのだが。自分を設計する設計図がないものだからどうあがいても不安定だ。だから必死で何か他のもので自分を支えようとする、そしてその外部の設計図はそれはなるべく既に決定してあるものが望ましい。というのも当の自分自身は軟弱で倒れやすく、とても脆いので。どこかにある既に完成された設計図が必要なのだ。


そして、一度自分を支える設計図を手に入れた者たちはそれを守り抜く為には己の全てをかける、あらゆる手を尽くして自分の設計図を侵すものを排除し、自分の設計図にないものはとことんまで無視する。


そうやって、自分は立派な大人になったのだと理解していて、当然ながら他人も同じように大人になるべきだ考えているから、やたらと間違った啓蒙活動を繰り返す。


さらに悪いことには、本来自分のあるべき場所に他人の書いた設計図があるものだから自分が他人の書いた設計図の上に立っているわけでもなくそのものと化しているところである。彼らにその自覚はないのだ。


具体的に付言すると、こういう輩は、やたらと感銘を受けたり、すぐに「気がついた、そうだったのか!」とか「〜に決めた」とか「決定」に関する台詞が多かったり、この世の全てのものに「原因」という得体の知れない何かが存在していると無意識に感じている人間に多いように思う。


まあ、最初に言ったように私も上記の例に漏れているわけではないのであるが。


ここで最初の主張という話に戻るが、私にとってこの主張というものは必要で不可欠なもので、自分に存在しない設計図をどうにかして手に入れようとしている作業でもある。残念ながら私は現実のなかに自分を支えるべき設計図を見つけることが出来なかった。かといって、私が私になる過程において明確なる私の意思を発見することもやはり出来なかったので、こうやって私の断片たる私の趣味やらなんやらという私の周縁の様なものを周りにぶち撒いて、そのどうしようもないガラクタのなかからどうにかこうにか一揃えの私を探そうとしているのである。私のような思春期の高校生をとっくに過ぎた青年がこのような馬鹿馬鹿しくも壮大に無駄な作業をしているのはとても悲劇的だとは思うが。
まあ、笑ってやってくださいな。