■夢のなかへ

夢の中へいってもみたいと思いませんか?
と毎晩のごとく夢の世界に旅立っている皆様にはつれないお誘いでしたか。いやはや。


しかし、よくよく考えてみると夢というのは不思議なものだ。
不思議、不思議と何が不思議かお前はアホか?ということで以下は私のつまらない疑問である。


夢の世界は脳が構築した世界である。本来の私はベットの上にいるわけで、現実離れした光景は脳が構築している世界なのだろう。そもそも、現実というのは脳が知覚する世界像の集約といえる、つまり単に現実世界を知覚するインプット状態が現実世界の私で、自ら独自の世界を構築するアウトプット状態が夢の世界の私である。
では?夢の世界を知覚している私は誰だ?何者だ?これが第一の疑問だ。


おかしいではないか、制作者と観客が同じ脳につながっているというのは意味がわからないし。
夢を作っているのが私なら、私は夢を作りながらその夢を知覚していることになる、そんなことが可能なのか?
ここで一つの仮説が立つ、つまり私という存在は現実世界を知覚する脳とセンサーいう単体ではなく、私自身を含む自分の世界そのものが私という存在であるという仮説である。
つまり、私には現実に対する純粋なリアクションなどというものは存在せず、私の知覚行為そのものが脳の演出であり。それは触覚から視覚まで全てが絶対値では無いという意味で独自の世界像を常に構築し続けているともいえる、いうなれば現実という完全他者を常に内的に取り込み続け、内的他者に変換させた上で私に現実に近い擬似世界像を体験させているのが私の脳であり。その行為そのものが私であり私は永遠に肉体の檻の中というわけだ。つまり、現実という完全他者は厳密には私には知覚することが出来ないということでもある。
簡単に言えば、私に当たる無数の空気や水を常に知覚し続けている私が所有する無数のセンサー群は「考える私」とは実は無関係だということでもある。


次の疑問、
夢の世界の一秒は、現実世界の何秒なのか?
これはちょっと重要で、夢から覚めるということは少なくとも多大な誤差があるわけでは無いのだが。
脳が構築する世界の一秒を客観的に測る方法が無いのでなんともいえないが、経験上夢の中には時間という次元というかなんというか、まあ時間が存在すると思う。
つまり、脳という組織は時差を感じている、少なくとも脳の処理速度程度には。そうでなくては脳の世界で時間が流れない。時間など流れる必要が無い。しかし、これは自分という存在が現在の自分が全てで、他が記憶という一般の人間像とは少し異なると思う。我々はある程度連続した時間を生きている。
似合いもしない哲学的な話になるが、この連続性というのはどの程度のスパンを持っているのか?
また、脳に時間が流れているというならどういう形状の時計が存在するのだろうか?ここでいう脳の時計というのは俗に言う体内時計というのとは少し違う、なぜなら、体内時計よりも遥かに正確な時計が無ければ脳のプログラムは上手く機能しないと推測されるからだ。体内時計のようにセンサー型では我々は窓を閉め切れば永遠に寝続けてしまう。というより時間を外部にコントロールされる恐怖が残る。
体内時計よりもはるか以前に、我々は正確な時計を獲得していると考えてよい。それはいったいどのような時計なのか?少なくともセンサー型ではないはずだが。


そして最大の疑問、
何故夢を見るのか?
これは全くもって謎である。睡眠という行為が、一般的に考えられるとおりにただの疲労回復であるとするなら、夢を見るという機能は全く持って本末転倒である。
夢を見るということは、現実を知覚する程度のエネルギーを消費している。いや新たな見たことも無い世界を想像し、さらにそれを現実のように知覚するわけであるから労力はさらに倍というわけである。
疲労を回復するなら漫然と石のように寝ておけばよろしい。
どういう理由で夢を見なければならないのか?起きながら夢を見るという行為をどうして出来ないのか?
例えば記憶の整理やらなんやらという仮説を聞いたことがある。だがこれは大きな問題がある。
記憶の整理に私が存在する理由が無い、私が主体的に夢の世界で活動する理由が無いのだ。
夢の世界の私が私のコピーであることに依存は無いが、私が連続してその記憶を継承する理由が無い。
夢の世界の記憶をまた寝ることによって整理しなくてはならない、そんな無駄な話は無いだろう。


すくなくとも、進化の初期段階、爬虫類や魚類は夢を見ないことが実証されているらしい。
ということは夢は人間が進化の過程で獲得した新たな機能ということになる。これが無駄ながらも残っているへその緒なんかと違う点でもある。
そういう意味で、夢というのはやはり不思議なものだ。