■ブラジルは遠い、100万マイルぐらい。[雑談]

そ、早朝、朝早し。


一番楽しみなブラジル戦なのだがとにかく遠い。起きていられるだろうか?
無理かも。
早朝に地球の裏側の国とドイツでサッカーとはちょっと不思議である。
そういうイベントだといわれればまあそうなのかもしれないが、
しかし、日本にとってブラジルは確かに真っ向から裏側だが、ブラジルにとって日本は裏側に幾つかある国の一つでしかないからそれほど感慨深げでも無いかもしれない、韓国もいることだし。


閑話休題


今日は単位の話。
さて、君の命はいくらか?


というと社会派を気取ったリアリズム作家の物語に出てきそうだが。
では君の値段は400万レアルだと言われたとしたら、さあどうだろう?それは多いのか?少ないのか?というよりむしろ「ああそういうものか、僕の命は400万レアルかふむふむ」と納得できそうな気がする。


どういうことがいいたいかというと、単位をぼかすと受け手が良くわからないままでも率直に受け取れるという実に便利な話でなのである。
「君の瞳は一万ボルト」というが一万ボルトと言うのが瞳に対する単位として適切なのかどうかは置いといても、とにかく一万ということで「ああ、一万なのか、そうなのか、それはとても多いのだなあ」と受け手が勝手に納得してしまうのである。
また、単位は時に現実に本来の意味と異なる価値を与える力がある。
「100万ドルの夜景」と「一億円の夜景」では価値が違う。どうも一億円では夜景に対してはちょっと額が少ない気がする。100万ドルというあたりで何かとても貴重で何にも変えがたい素晴らしい夜景の気がしてくるのである。Price less。


昔見た映画か何かの副題で、今でも覚えているものがあるのだが。
「戦場まで何マイル?」随分ステキではないか、戦場という血や死を連想させる暗い言葉と非現実的なマイルという単位が直線的に噛み合って幻想的ですらある。
これが「戦場まで何キロメートル?」となると、これは斥候か軍師の戦記物語になってしまうのではないだろうか。


ここで面白い単位がある、ベトナムドンと言うお金の単位なのだが、これがまたとんでもないのである。
どのくらいとんでもないかと言うと。


10,000ドン=70円


これはちょっとすごい、物価が違うといえば確かにそうなのだが。いまやベトナムも立派な新興国である。
この差はちょっとありえない、何せ缶コーヒーが5,000ドンもする、いや、日本円にすると30円あまりだから5,000ドン「も」と言うのは変な話なのだが普通に考えても0が多すぎる。
何故ベトナム政府がデノミしないのか私は経済の専門家では無いから分からないが、不便じゃないのか?
いや不便なのだ、ベトナム人は誰よりドンの使いにくさに閉口しているらしく街中ではドルが普通に通じるし外国人にはドルで無いと売ってくれない場合も多い。
なによりドンを使用しているとおつりという概念が消えてしまい、渡した札束は計算が面倒でまず帰ってこない。両替詐欺も多いそうである。というか詐欺と言うより計算を間違えただけじゃないのか?
さらに、2003年まで硬貨がなかったのだ。全て札、札、あっという間に札束長者になって財布がパンパン一杯なってしまう。
10,000ドンが70円なのだから、1万円は140万ドンということで安易な気持ちで両替するとありえない額のドンを所持することになるのである。これがまた、公共交通機関はドンじゃないとダメなので両替するしかないのだが。
ちなみにドンには10万ドン札(700円)と言う冗談みたいな札がある。(桁が多いので札の種類もとても多い)


では、「100万ドルの夜景は?」というと「15,995,000,000ドンの夜景」である、ドンと言う語感がワルっぽいが。
「159億9500万ドンの夜景」というのはすごい、なんかすごい、もう眼前の夜景の素晴らしさに気絶してしまいそうな語感がある。


では、私の命はいくらか?
そりゃあ、保険金ももちろんドン立てで受け取れば、私のささやかな命もいくらか輝きを増すだろう。