■大学崩壊社会に思う[評論]

しかし、このごろ立て続けに起こる重大犯罪でなにやら世間は騒がしいが、それにしても、もはや大学という場所は社会への有効な通過点という意味をなしていないのだろうか?


いわゆる大学と名のつく学び舎であればどのような大学であってもそれなりに将来の道が開かれる、というような時代ではなくなっているのだろうなあ。


私は社会に出るために個人として必要なインテリジェンスはほとんど大学で学ぶんじゃないか?と考えているから、こういう大学に入る道を選択するような盲目なインテリジェンスがしだいに意味を失いつつあるというのは少しさびしい気がする。ここでいうインテリジェンスという言い方は語弊を招くが。まあ、大学という場所はそういう胡散臭いインテリジェンスなるものを学ぶところなんだと言い切ってしまおう。


で?お前はどこ大の出だという話になるのだろう、まあ私の場合は頭の良い悪いはほとんど意味をなさなかった大学だったのだが。ま、最低限それなりに自分で自分の意志と行動を選択出来るというところまでは(かなり危うかったが)もっていっていたと思う。
これはゼミだとか授業だとかそういう意味ではなく、純粋な生活環境という範疇で、という意味においてである。
そもそものわざわざ大学に出向いて単位をとる、ということからして無意味なインテリジェンスを必要とするのである。


うーん、こういう言い方は誤解を招くが、ある地域の呪縛からの自由の獲得。というような感じなのだが。
どうも言葉にしづらいな。(誤解を招きやすい題材だし)
かつてはある地域からの脱却は生半可なことでは成せなかった。
そしてそれが成せる道というか役割として大学という存在があったんじゃないかと思う。


だが、その役割を大学がうまく果たせなくなってきているのではないか、といえば良いだろうか?


自身の選択に必要なインテリジェンスというか、生活における判断力というか、自立学習能力というか。
そういう能力を得ることはなかなか大学以外では難しいのではないか。
そして大学がその機能を失いつつあるとすれば、やはり大学卒者の犯罪発生率は徐々に上がっていくんじゃないかなあと思う。


今回のありがちなリンチ殺人事件だが、やはり大学生が暴力団を語るというあたりにどうしようもない閉塞感が漂っている。
ポイントは関西ということであり、余りいいたくないのだが関西の閉塞した状況は京都を境に随分悪化していると感じる。