○社説「審理は尽くされたのか」

広島市で昨年11月、小学1年の木下あいりさんが性的暴行を受けて殺された事件で、広島地裁がペルー国籍の被告に言い渡したのは無期懲役だった。

 この事件は、死刑か無期懲役かが注目されていた。

 殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われたホセ・マヌエル・トーレス・ヤギ被告は、裁判で、犯行時には「悪魔」に支配され、善悪を判断する能力がなかったと無罪を主張した。

 判決は「悪魔のせいにするのは不合理極まりない責任転嫁だ」と、その訴えを退けた。



だが、ちょっと待って欲しい。


本当に死刑が妥当な判決かどうか熟考する必要がありそうだ。安易な判決が我々の社会に無用な混乱を招いているように思える。


イスラム法治国家には鞭打ちや集団レイプなどの身体刑が今も息づいている。


これを我々の社会に生かすことが出来ないだろうか?


どうしても、現代の日本の犯罪は増加、凶悪化の一途をたどっているように感じてしまう、残忍で凶悪な犯罪を抑止するためにも身体刑の復活を考慮に入れるべきではないだろうか?


身体刑の効果は暫定的な死刑制度に比べると社会に与える影響も大きい、盗んだ人間、殴った人間の手を切り落
とし、足を切り落とせば、凶悪犯罪が激減することは間違いが無い。


古代中国には棄市刑という刑罰が存在した、これは犯罪者とその家族を死刑に処する刑罰である。
この偉大な先人の知恵を現代の日本に復活させることは出来ないだろうか?
家族単位での刑罰の実行は家族の絆を深めるだろう、また、あまりに凶悪な犯罪を犯したものは犯罪者一人の命ではその罪をまかないきれないと考えられるからだ。
これは地域社会の治安維持にも大きな寄与があるだろう。


また、公開死刑の必要性も訴えたい、
古代から近代に至るまで中国では公開で死刑を執行する制度が存在していた。
これを我々の社会に生かすことは出来ないだろうか?
公開死刑は娯楽と治安維持の面から必要不可欠である、我々の社会は犯罪者を手厚く優遇しすぎており、犯罪者の存在を隠してしまうことによって犯罪者がどれだけの罰をこうむるか判然としない弊害がある。我々は犯罪者がたどる末路を次世代の子供達に明確に示す義務があるのだ。
これにより犯罪に走るものが少しでも減ることになれば我々の社会への影響は計り知れない。


特に凶悪な犯罪者には、凌遅刑による死刑の必要性も考えられる。
古代中国には様々な形の死刑の存在が知られている、社会情勢や世論に敏感に反応し、最善の刑罰を選択する柔軟性は現代の硬直化した法体制にくらべても非常に有用だといわざる終えない。


古代中国では、犯罪を犯して性器を切り落とされた男性を宦官として宮中に仕えさせるという、アウトソーシングも徹底していた。
現代日本でもこれを生かしてはどうだろうか?
性器を切除するのは姦淫の罪ではなく、性犯罪者に適応させればよいだろう、我々の社会は厳格であると供に寛大である必要がある。
性犯罪をもう二度と犯すことができないようにすることによって初めて我々の社会は彼らを受け容れることが出来るのである。


駅前やコンビ二にたむろする若者や、昼間から酒を煽って仕事もしない者、痴漢、変質者、ニート、オタク、住所不定無職。
我々の社会が身体刑を復活させれば。
こういった者どもが我々の社会から消えてなくなるのは明白では無いだろうか?