■ラヴクラフト雑感[評論]

私はこう言ってしまうことが出来る。ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))
ラヴクラフトという作家を異常に愛するという行為は正統な行為ではない。


ティーブンキングやレイブラッドペリやレイモンドチャンドラーに対して感じる愛と、ラヴクラフトに対して感じる愛とは地平が違う。
だれも、私以上にラヴクラフト人間性を信じることが出来ないだろう。


私はこの一点においてこの複雑で陳腐な物語を愛することができるのだ。


ということで、私のラヴクラフト愛を端的に語ってしまった。
もうこれで十分だと思うが。


いうなれば私はラヴクラフトの物語を読むとラヴクラフト人間性を身近に感じることが出来る、といえば単純なスタンドアローンコンプレックスな話だが、本当にそうなのだよといっても信じては貰えまいだろうな。


そういう作家が誰にも一人くらいいるのではないか?
といえばもっとわかりやすいかもしれない。


私は同じ作家でもスティーブンキングの人間性は分からない、スティーブンキングの紡ぎだす物語の素晴らしさはわかる、しかし、彼自身の人間性をその物語から汲み取ることが出来ない。


人間性が読み取れる作家というのは単純に相性ともいえる問題である、だれでも腑に落ちる作家はいるはずだ。
そういう作家に出会えたら幸運であると思う。


ちょっと私の個人的な種明かしをしておくと、ラヴクラフトの物語は悪夢であって悪夢でしかないと思う。
そこにはあるべき物語的な展開が余りにも希薄である、病的に粘着質に詰め込まれた描写が有効に機能するのは悪夢という範疇においてのみであり、ラヴクラフトの視点は己の作り出した悪夢にうなされる患者自身の視点に終始していて視点のぶれは一切無い。
主人公以外の人間が幽霊のように希薄である。異質な第三者との折衝が行われない、つまりドラマが無い。


そういう面で言えばはあまり面白い本とはいえない、単純な物語構造としては「世にも」よりも希薄であると思う。
ではなにが私を惹き付けるのか、
悪夢である、悪夢の追体験で私自身の内包するイメージの具現化が行われる。
病的なまでの悪夢に対して精神誠意描写を尽くす姿勢が私の持つ悪夢に働きかけるのである。
これは癒しだ、おそらくラヴクラフトが自身に対して行っていた「治療」の追体験によって他ならぬ私が癒されるのだ。
「癒し」とは「慰め」ではない、自身の内包する非言語的イメージの具現化だ。
それが上手いものが芸術家や宗教家となる。
宗教では神が癒すのではない、経典が癒すのである。
言葉が人を癒すというと語弊があるかもしれないが、詰まるところ言葉であり、物語である。
我々はイエスの受難を物語でしか知らない、癒すのはイエスではない物語であり、賛美歌や文字である。


ラヴクラフトから話はそれてしまったが、
物語構造が極端に希薄な映画「宇宙戦争」が大ヒットした原因は悪夢である。この映画が嫌いな人は唾棄するほど嫌いで、逆に好きな人は何度も見てしまったのではないだろうか?そしてどういうところが好きなのか説明できないのではないだろうか?


それは癒しであり、悪夢である、そういう意味で「悪夢」は人を癒すことができるのだ。