ウチとソトの快楽点



心理学とか、政治学とか、オタク学とか、経済?は違うか。
まあ、ブログにおいてはウチとかソトとか偉そうに言っていればそれなりに偉そうな評論になる。


ということで、
古来、といっても1870年代までやっていたらしいのだが、日本では小正月に面白い祭りが沢山あった。
小正月の面白祭りといえば、悪い子供を諌めるナマハゲが有名だが。江戸時代、現在の宮城県で行われていたとされる「ザットナ」というお祭りが結構面白かったので紹介してみる。
ちなみに、まったくの本の受け売りなので、そこら辺はご容赦を。


さて、この「ザットナ」なるお祭りであるのだが、小正月に一年たまった憑き物を落とし、境界の神の再生を行うという日本では良くあったお祭りの一つである。


じゃあ、どこが面白いのかというと、このお祭りは各家を「子供」が回り、各家の家人の悪口を裏口で大きな声で歌うのである。
現代のなまはげと全く逆の構図で面白いが、これはやられると結構むごいと思う。
ちなみに悪口を言う子供達を指導するのは村の若者の仕事だそうで、ある。
「子供の口」(つまり境界の神)の力を借りて、家人を諌める祭りとのことだが。


嫌だ、これはありえない、私がこの村で生きていたら小正月が大嫌いになっていたと思う。


ここで歌われる「悪口」は、私心とされず、この限定された条件においては神意に等しい民意という規定がなされた、とのことである。


この、神意を語って各家に対する「諌め」を行う、という形態の儀式は全国各地で見られたといわれている。
仙台では村を練り歩く神に仮装した若者達が、日ごろ世間から疎まれている者の家を踏み荒らしたり、打ち壊したりする祭りが行われていた。


これも嫌だ、打ち壊されたら、めちゃめちゃへこむ。多分、立ち直れない。


実際に、飢饉が起こった1836年の仙台では、この祭りは問屋の打ち壊しに発展したらしい。
ムラの大部分が飢えているのに、問屋がコメを溜め込んでいるのは許されない、と、神意なる民意がその行使を行ったのである。


まさに民意の制裁である。


で、何が言いたいのかというと。
ムラという内部に対して訴えかけるには、民意という神意が望ましいという形式。
例えばイデオロギーなる思想や手法なるものも、単に少数か多数かという問題にすり替えられやすいということでもあると思う。
たしかに、実際に問題になるのは、本質ではなく、民意である。
多分正論だ、だが、傾きかけた朝日新聞に代表される旧世代の大衆価値というか、そういう価値に相対する時に、我々がなにを使うかといえば結局ざっくり民意であって。
そういう意味では朝日なる主張は本来というか過去形では素晴らしく正しかったのだし。
朝日が正しい、正しくない、というより単に民意が若干形質変化したというだけで、本質的には変わっていないのではないか。
というか、なんというか。


まあ、プロ市民だから民意でなかったりするのであって。


昔は戦争賛美なる家は踏み荒らされていたが。
結局現代のプロ市民なる家も、小正月の祭りにおいては踏み荒らされたりするのである。


境界の現場









参考文献: