全面的オタク批判。



さてさて、オタクはどうして蔑まれるのでしょうか?という始まり方で釣ってみる。


漫画やアニメやライトノベルを愛して止まないオタクと呼ばれる方々がマイノリティであるということは理解しているつもりである。
だが、世の中にはもっと、というかさらに少数が愛して止まないジャンルが存在するのではないだろうか?
例えば、ワイン通とか、ダイビングマニアとかクルージングなどがそうである、世の中にはオタクよりマイノリティでしかし、その存在を認められている趣味が沢山ある。


その差とは一体なんだろうか?


まず、よく言われるのが、子供が遊ぶようなものにマジになっている大人、というような大人になり切れないナイーブなオタク像というのがある。
アダルトチルドレンとか、何とか症候群とか、石を投げたらあたりそうな胡散臭い心理学用語で心理状態を分類して満足するようなあれだ。
だが、良く考えると、おかしい、何がおかしいって。
比較的ポピュラーなサッカーや野球にしても、主に本気になるのはガキの頃の話である。
大人になって腹たぷんたぷんのイカ臭い親父が阪神タイガースがどうしたのこうしたのというのは、スポーツマンに成れなかった自己の願望の投射であり、ガキっぽいこと甚だしい。よって彼らは精神的に未熟である。
特に、違いは見受けられない。


次にデフォルメされた女性像に対する憧れがある、これもよく言われる。
頭蓋骨の半分が目だとか、お前何頭身だとか、胸がでかすぎるだとか、小学生が高校に登校しているようにしか見えないとか。現実の女に見向きもされないから創作された二次元に走っているのだ、きもい、氏ね、などと言われたりする。
だがこれもおかしい、そもそもの女性像のデフォルメの起源は土偶である、女性像の肥大化は今に始まったことではなく太古から面々と連なる人間の生理現象である。
このような、女性像の肥大化は芸術作品では普通に見られるものだ、例えばミロのダンスとかね。
このような絵画を愛しているからといって、きもいとか氏ねとか言われることは無い。
「萌え」は別にきもくは無いのである。
大体において裸婦とか春画とかイカ臭い手で必死こいて描いていたのは、そういう理由であるのだから何をかをいわんやである。
人間というのは太古から現実の性欲を別の形に表現しなければいられない生き物なのである、不健康などではなく当然の結実がああいう造形である。


次に物語性が挙げられる、現実にいそうも無い美少女(美男子)がたいしてイケてるわけでもない男(女)にラブだの、イチゴだの100%だのアホかと、馬か鹿かと。
しかしこれも間違いである。
仕立て屋の恋は荒唐無稽な100%である、ハムレットだってオセロだって真夏の夜の夢だって似たようなものである。っていういかあ、メロドラマの大筋と何が変わらないのか?
少年時代に青春が出来なかったその欲求とかまるでおかしい、一体全人類の何パーセントが充実した青春を過ごしたのだろうか?皆が皆、押尾学ではないのだ。
誰もが持っている青春の負の一面を勝手にオタクに押し付けているだけである。


さらに、オタクの容姿が悪いということが挙げられる、オタクは大概がきもメンで、デブかガリですなわちキモイとなるのだが。
これに関してはある程度認めざる終えないのだが、まずファッションが悪い。
体型的なものは印象に残るオタクだけをピックアップ検索しているだけだろう。
ファッション、これは容姿以前の問題である、ファッションさえ何とかすればオタクも何とかなる、何故か、人間のうち何パーセントが容姿に恵まれているだろうか?大体の人間はファッションでその人間性を判断する。(恋だの愛だのはまず置いといて、の話だ。)そして、恋だの愛だのは人間性から始まり、人の判断は大概において見た目がほとんどの割合を占める、
オタクがキモイというのはほぼ間違いである、大体の人間が平均を境に上やら下やらしている、ファッションでこの差は絶対に埋まる。
どうしようもない容姿というのは確かにいるだろう、だがそれはオタクにもいるだろうが、別の場所にも存在する。


最後に、オタクなる精神性を挙げよう、俗に、オタクはキモイはなし方をする生き物だと思われている。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、ハルヒたんがす、好きなんだな。」
どこの未開拓地の原住民か?
普通そのような話し方をするのは緊張しているからである、何故緊張するかといえば、


本題に入ろう、今日はオタク批判である。


単純に言えばオタク像というのは卑屈なのである、良く考えてみると、これはどういう人間に対しても沸く嫌悪感というか不信感を抱かせる、相手が意味もなくへりくだった場合何かあるのではないかと勘ぐるのが普通でありそれが態度にも表れる。
私が言いたいのは、現実逃避だとかなんだとか理屈をこねくり回して結局は卑屈であるという点でやっぱオタクはキモイという主張が最も激しく見られるのが、オタク発が一番多いという現実である。
オタクを何より毛嫌いしているのはオタクであり、それが何故か社会に認められていない、すなわち社会性が欠如しているという謎の一点に行き着いてぱったり終わる。
自己付言については多少自傷気味に、他者付言については多少加害気味に、フェミニズムと変わらない永久闘争の構図である。
といえば、やっぱり私がオタクでその上でオタク批判しているという点でやっぱりこの輪から逃れられないのだろうか。


いや、それは私自身の双肩にかかっているという当たり前の話だろう。(普通、誰だって他人にどうこう言われたくないよね。)