[評論]ウは宇宙船のウ



ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)
実のところ、私はレイ・ブラッドべリが単純に文明批判者として位置づけられているのが疑問だった。
だが、実際にこの作品を読んでみてその疑問が幾分消化されたように思う。


やはり、レイ・ブラッドペリは文明批判論者ではない。
確かに、同じレイ・ブラッドペリの代表作「火星年代記」には自然を破壊する人間像に関する踏み込んだ記述があった、「華氏451」では進みすぎた全体主義の恐怖を描いていた。
が、しかし、それが文明批判なのかといえば、確かにざっくり付言してしまうことも出来るのだが、はっきりそう言い切ることには躊躇いがあった。


というのも、「火星年代記」の長大で魅力的な物語が「火星年代記は痛烈な文明批判です。」というキャッチコピー化された単純なフレーズに圧縮されて、それで終わり。というのはいかにも型にはまった見方であり、それはそのままレイ・ブラッドべリが批判したかった部分にすっぽりとはまっているように思えてならないからだった。


この作品を読んでよかった、腑に落ちた。
実際に「ウは宇宙船の略号」という短編に描かれていた全力少年な宇宙への憧れは、私にはとても文明批判とは思えなかったし。「長雨」などに見られる未知の世界を想像する時に感じる独特の高揚感を、私も感じることが出来た。
実際どの作品を読んでも感じるのは、宇宙とか火星とかそういう未知の世界に憧れる進歩的ファンタジックな側面がブラッドベリにはあって、それでこそのレイ・ブラッドベリという作家なんだという確信である。
こういう単純な側面が抜け落ちてしまうのはなんとも惜しい。


単純に、本当に単純に、宇宙や宇宙船に憧れる少年的で幼稚な希求は時代がいつであろうとも私達の心を打つ。


もちろん、それだけではない、そのファンタジーに人間という物語が加わる、未知のファンタジーの世界で生きる人間という物語はあるときはエゴイスティックであったり、あるときは博愛の鼓動に溢れていたりするのだが。
根底にあるのは、人間が宇宙に行くという当たり前の前提である。
宇宙がある、誰が宇宙に行くのか?
この問いに真摯に答えたのがブラッドべリという作家だと思う。


決して技術が進歩したからといって人間が進歩するわけではない、それは言い換えればどれほど人間が進歩しても人間は人間らしい未知の世界への憧れを棄てることは無い、ということだと思うし、レイ・ブラッドベリはそういう人間性を真っ向から肯定していたんだと思う。




補足:日本語題の「ウは宇宙船のウ」なのだが何故ウなのか?アではないのか?原題はAではないのか?AならAsutoronatだろうし、なら「ウは宇宙飛行士のウ」となるのだが、むしろ宇宙船ならspace shipではないのか?と誤解していたのだが。正しい原題は「R IS FOR ROCKET」なのだ、つまり「ロはロケットのロ」となるわけだが、これでしっくりきた、やはりレイブラッドペリの本質は宇宙を漂う宇宙船ではなく、重力を振り切って空に飛び立つロケットであり、この原題には地上から飛び立つロケットの航跡を見上げるブラッドベリの目線が実によく表されている、と思う。