100万円あれば



100万円というのはたいそうな額の気がする、
昔、番組に応募した家族の父親が課題に挑戦し100万円を手に入れるというTV企画があった。
気張りすぎて仕事を休んじゃうような父がいたような気がするのだ、本末転倒な気がするが、まあ、それほど100万円が欲しい欲しいと思わせるように様々な趣向が凝らしてあった。
だが、もし給与が500万円あれば約180万ぐらい所得税で引かれるのである。
そして実際に100万円も持っていない家庭というのはそう無い、日本の平均貯蓄額は約400万円だと言う。
まあ、確かに100万円というのは多いのか少ないかと言われれば確かに多いのだが。
世の中所得にも差があるのだから、多いという意識にもそれなりに千差万別あろうとは思う、だが、実際には100万円の価値は世間一般にそれなりに共有されていると思う。
これからどうなるかは解らないが。


しかし、100万円の価値が高いといっても。
所得税で引かれる180万を君にあげるよといわれても、実際にはそういうわけには行かないし、まあ言葉遊びだ。
さらに言えば一平方mあたりの地価5000万円の1/5000、0.005平方メートルをあげようと言われてもどうしようもない、スペースシャトルに使われた100万円分のネジだとか、人件費100万円分だとか、梅干100万円分だとか、まあそんなもの貰うなら10万現金でくれよとなるわけで、まあキャッシュフローとか横文字は素晴らしいなあということなのだが。


そう考えれば、現金100万円というのは100万円分の梅干より価値が高い。
単純にどちらが欲しいか?といわれればどちらかといえば現金の方が良いからだ、(別に梅干に恨みはありません。)
では、100万円の価値がある壷を割ってしまったとして、では弁償代は100万円なのかといわれるとまあそれはそうだが、実際100万円の壷を即座に補充しなければならないわけでもない、しかも、壊したのはは100万円の価値があるとされている壷で現金100万円ではない、方や現金100万円を耳を揃えて弁償しなければならないというのはなにか不公平な気がする。
こういう場合100万円の壷に見合う100万円分の梅干では対価として認められないのだ。


では、100万円の価値がある壷がいったい現金ではいくらなのか?それはもちろん100万円である。


私達は現金でいくらかという難問に悩まされている。
それはつまり現金に変えた場合いくらになるか、という範疇で理解されているといっていい。
だが、それが絵画になるともはや欲しい人がいくら出すかが価値に代わるようになり、音楽は聴いた人の数がものを言う、さらに言えばダムや道路も建設にかかった金額をそのまま価値に当てはめてしまいがちだ。
価値と現金とは切っても切れないが、それがどれだけ私達の個人的認識に作用しているのか?もしかしてこれはただのルールであって本来的なものではないのでは?という疑問も深まる。
格差社会というのはそういうルールなるものが私の知らない間に変化しそうでちょっと怖い気もする。


で?何が言いたいのかといえば。
いや、減価償却が95%までというのはどうかな?という高尚な経済学で、
えーと、、、割り引かれる小切手の身にもなってやってください。