所詮この世は弱肉強食、ねこだって食べる。



すみません、えーあの、ブログ題が気にいってしまったのでこのままで行きます。
いやここにいたるまでには、苦難の道のりが、あったんですよ。マジで。(ブログ題を考えるのは恥ずかしい)
ええ、「なんか偶発的な感じがいい感じなんじゃね?」(ジャクソンポロックの自伝より。)


ともあれ、また話題に乗り遅れ気味なんだが。
「猫を殺す女」というなんとも殺伐とした話が話題になっている。
結構大きな話題になっているようで。
知らない方はこちらへリンクしておく。


どうやら、ネット上でも喧々諤々の議論になっているようだ。
発端は「きっこ」ですかね?
もちろん、殺すくらいなら飼った方がいいというのは世間一般的な認識に該当するだろう、私もその認識は当然だと思う。
我々の社会にはかわいい生き物を殺してはいけないというルールがあるからだ。
と、まあ話はこれで終わってしまうのだが。


ちょっと気になったのが殺すくらいなら食っちまえというこちらのブログさんだ。
いや発言趣旨としては、そういうサバイバリー破天荒な発言ではなく、ムツゴロウさんの発言を引用しているだけで、猫好きのいい人である。つまり、筆が滑ったのであって、すいません。


私が気になった点は、
一つ、「捨てるのもなんだし食べちゃいました。」というほうが猟奇的ではないのか?
もう一つは、「殺すことと食べることがセット」であるという場合はどれだけその行為に説得力が増すのか?
という部分である。


まず、最初の疑問。
食べるという行為には生理的に様々なイメージが付きまとっている、それだけに理由や理屈ぬきで感情が爆発することがある。例えば捕鯨の問題だったり、犬食の問題だったりするのだが。
人としての最大の禁忌は人食である、鯨も犬も人間に近いとされているから嫌悪される、もし牛が「今日も草がおいしいモー」などと喋っていたりすれば誰も牛を食べようなんて思わない。
そういう意味で猫はどうなのだろう?
法が許せば、個人的な信条の問題で食べれる、或いは食べても問題ない生き物なのだろうか?。
例えばこちらには猫食文化?というか食糧難の時代を反映した猫食が未だにあると告発しているのだが。
どうだろう?


次に、殺すことには食べることが伴っていなければならない。
様々なメディアでも「スタッフが後で食べました」とテロップが入るあたり重要な問題を含んでいるように思う。
これはテロップが流れただけで、実際捨てているか、食べているか、撒いているか誰にも解らないのに「食べました」と出るだけでとたんに納得してしまう我々の心情からも明らかである。
しかし、実のところ我々が食べなければ何者かが食べるのである、自然とはそういうサイクルの中で成り立っているのであって、我々が食べないことで他の生き物が生きるわけである。だから食べないという選択肢も、食べるという選択肢も、大きな自然界という枠内では同じ意味である。
実際、肉食動物には好きなところだけ食べて捨ててしまう、という行動も確認されている。
だが、実際食料は無限ではないということを我々は知ってしまった、だからもったいないという範囲内において食料は食べなければいけない、という重いルールは我々だけが背負っている。
人間は恐らく想像を絶する食糧難という暗黒の時代を数々経験して来たのだろう、或いは今もそうかもしれないが。
現在、一見は豊かになったと見えるこの社会にも、その残滓は残り続け、我々に重いルールを課している。
といっても、実際、食料を扱う職に就いてしまうと、単純にそうでないことのほうが多いのだが、これはまた別の話。


だから殺しには食がついて回る、一旦殺せば、食べなければその機会を失ってしまうからだ。
そういう意味では、「命を無駄にしない」という言葉はその言葉の使用者の意志でもある。


だからこの言葉には我々が存在する理由がある。
「命を無駄にしない」「食う為の殺し」とは優しい希望でなく、我々の存在の土台である。
我々が暗黒の時代を生きてきたという確かな記憶であって、我々が此処にいる基盤である。
我々は猫だって食べていたのだから。




今回の猫殺し騒動には、動機の面において許せないという反発が多く見て取れる、もちろんそういう反発は解るし、意志は本意だろう。
日本社会に生きる人間として、私も坂東眞砂子さんの考えには賛同はできない。
まあ、主張には賛同できないというだけで、坂東眞砂子さんになにか言うことがあるかといえば「名前ぐらいつけてやれば良かったのに」としか言えないが。


どっちかといえば嘘臭い気もするし。