非モテとかカッコいいなあ。



要するにあくせく頑張って女の子の眼鏡にかなうように、自分を無理に飾りたくない。
女に媚びてまで、いい男を演じたくない。
というわけですね、多分。あってる?


私など昔失恋に悩んでいたときは、木になりたい、木になれば、ココロなどいらない。
などと本気で考えていた頃もあった。だから、非モテとかいう俗世間から遊離した仙人みたいな生き方をちょっと聞くだけで、いいなあと、うらやましいものだ。


もちろん非モテには女性という一時的な対象があるとは思う。
だが、多分、というか私の印象では、時間を盗まれた大人というか、高度にシステム化された資本主義ゲームというか、理屈で成り立っている合理化された外側からの圧力から解き放たれたい、という願望が根底にあるように思う。
普通に生きているだけで、どういうわけだか自分は圧力を受けている、キモイ、ブサイなどといわれ、何かといえば「キモイから」で片付けられ、社会の歯車になれるかどうかで己の価値が値段とか株価とか、底値とか言われてなんだか非常腹たつナリ!
という圧縮されて使い古されていく自分と社会から意思だけでも乖離してしまおう、という意味があるのでは?と思う。


俗世間のしがらみを避けて隠遁する生き方は陶淵明とか李白とか、中国の歌人を思い起こさせる。
遊離というか、乖離というか、枠の外というか。
青をめでて、夏を知り。
黒を知って、冬が来たことを悟る。って感じが実に良い。
そういえば、村上隆は日本が抱える隠遁する芸術家像を終始批判していたが、消費される芸術家というのもなかなか食っても美味くはなさそうだ。
むしろ、そういう生き方ならもっと儲かる道もありようがあるだろうに、という答えが終始ついて回るように思う。
別に村上隆の生き方が悪いとか芸術論がどうというわけではない、形でいえば虫キング造った方が儲かってるじゃないかということだ。


もちろん、いろいろあるとは思う、現実逃避とか。
だが、歌仙だってそうだったし、我々もそうだ、我々は生活を内包する。生活から乖離することは出来ない、だからといって、言葉までそうでなければならない理由は無い。
どうにもならない言葉の羅列が、化石から蘇ることだってある。
人生がただ平坦な円満であることを求めるなら。それこそ木に生まれればよかったのだ。


私の好きな李白の歌でも書いておこう、(漢字当て字あるかも、超有名な歌だけど著作権って切れてますよね?)
山中與幽人対酌


兩人對酌山花開


一杯一杯復一杯


我醉欲眠卿且去


明朝有意抱琴來


両人(りょうにん)対酌(たいしゃく)して山花開く
一杯、一杯、また一杯。
我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)はしばらく去れ
明朝意(みょうちょうい)あらば 琴を抱いて来れ


意味(私約)
俺とお前が晩酌すればそのたびに花が開くのだ、
一杯、一杯、また、一杯、
俺は眠くなってきたから、お前はとりあえず帰れ、
明日も来る気があるなら明朝、琴でも持って来いよ。