〜しなければよい。の問題点。



ネットというのは、文字しか無いくせにやたらといさかいが起こるようで。
もうなんだ、口汚く罵るという行為自体にはあまり抵抗が無い様に思う、DQNのことをそう悪く言えないのではないかと、要はばれなきゃいいのであり、正義がこちらにあれば正当化されるのであり、なんだかんだで戦時中に非人道的な事件が起きる理由もわかる。
敵という範疇で正義は我にあり。
手段と行動に正義という後ろ盾があるのは明白だし、一時的にせよ局所的にせよ法の守備範囲外に放り出される事態が予想できる。個別の敵の背後がそのままダイレクトに自身の身近な不安に直結している以上、非人道的な行為はありうる話に思える。
起きたか起きなかったかというより起きてもなんら不思議ではないという範囲内でだ。


ま、これは蛇足。良くも悪くも無い。


よく言われるのが。
「しなければよい」という文言だ。
まあ、この言葉がどこかにあれば大概の状況は悪い方向に傾いていると言っていい。


そう、妥協の無い、先進的な無駄の無い提言だが。
いざ、この言葉の範疇の「しない人間」という有効打は少なくとも言葉の上では十分成り立つのだが。
この言葉によって、自らの行動半径はらくらくに狭められていく。使用者ともどもにである。
当たり前のことだが。


考えてみれば、法律はやっていいことは書いておらずやらなければならないこと、やってはいけないことばかり書いてあるのだから世の中はそういう法則だといえばそうかもしれない。
けれど、態度とか、それこそ言葉とか、そういうものまで出来ないことこと、言えないことだらけにする意味はあるのだろうか。
ほとんど荒唐無稽な主張であっても、そこにある意味はあるのだし。
だれもネットや世間を積極的に綺麗にしなければならない、という責務を負っているわけではない。
ある意味においては、ある時間と、限定された受けてに対しては非人道的な言動でさえ、そこには意味があるのである。
責任や自覚といった、あるべき姿を持たない言葉がシステムに乗っ取って都合よく使われることによって。規定された、スキの無い文章ばかりになったとして、じゃあ誰が楽しいのかといえば。
それらの言葉を使っていた人間では決してないはずなのだが。


人目を惹き付けているという理由だけで、システムのようにテンプレと化した常識的批判を受けるのは、はっきり言って意味が無いし、説教にすらならない。
何も生まれないし、常識的な社交辞令で終わるだけだ。


論理的に矛盾しているかどうかというのが、言葉の最大限の攻略範囲なら、辞書と会話すればよいのだ。


辞書と会話したくなければ、言葉を疑うしかない。
だが、それはずいぶん難しくなっているようにも思う。


マスコミニケーション上ではある程度目に見えるテンプレというか、言葉の範疇が定められていて、それは例えばスポンサーとか、事務所とか、視聴率とか、そういうこちらから見ればどうでもいいような内部事情を様々にはらみながら成立している。
ネットは確かにマスとは違うようにも思える、だが、実際にはある言葉の範疇がただ単に背後関係が変わったテンプレとなっているだけだ。
そういう言葉を使うなら、当たり前に規定できる。


法律を犯す奴はクズである、そんなことをしなければいいのに。
税金を納めていない奴は総じてクズである。払えばいいのに。
子供を虐待する親は総じてクズである、そんな酷いことをしなければいいのに。
韓国や中国を良く言う奴は総じてクズである、そんな言葉を発しなければよいのに。
借金をする奴は総じてクズである、借金などしなければいいのに。
タバコを吸う奴は総じてクズである、吸わなければいいのに。
童貞はクズである、女性ともっと親しくすればいいのに。
ニートはクズである、働けばいいのに。
自殺する奴はクズである、自殺などしなければいいのに。


難しいのは言葉を疑うことだ。
言葉は疑うことが出来る、理由は要らない。