すごろく優越感ゲーム。



言い切ってしまえば「めっためた」とか、そういう言葉を使っている時点である程度底が知れる。(我ながら。)
まあ、流行言葉である。
造語であり、業界用語である。言葉遊びである。
単純に言えば、だれだれがアニメ好きとか二次元に逃げているとかそういう動機に関しては、ある程度距離を置いた人間からはほんとにどうでもいい問題で、こいつは金を生むか?産まないのか?と、まあそれだけが分かればよいのだ。


人間っつうのは、個々に大した違いがあるわけではない、例えば100メートルを走るとして、健康体である程度若い年齢であり、そればかりを訓練すれば誰でも12秒ぐらいで走れるようになる。ひょっとしたら10秒台を出せる者も相当数いるかもしれない。
で、世界一速いトップアスリートは、というと、そのたった一秒足らずの先にいるのである。
全人類の中で8秒台で走ったものはいない。
そのちょっとの差、ほんの数秒の差の中に全人類数十億人がうごめいている。


だが、そのちょっとの差というのは本人等にしてみれば結構大きなものである。
二人の人間が競争した場合、10.1秒なのか、9.8秒なのかが純粋に勝敗を分けるからだ。だが、それは人間という枠内でのみ通用する話である、誰も空を飛べないし、水中で呼吸は出来ない。
だから、優越感ゲームというのはある特定のグループ内でのみ通用するゲームである。


つまり、ある一定のグループ内においてどちらか一方の勝敗を決めなければならない場合においてのみ、優越感ゲームというかゼロサムゲームは有効に機能する。


現実では例えば、何かの選考会とか、甲子園とかそういう状況においてのみ優劣が問われるのだ。


だが、人間はその機能とは別に、感情面で優れていたいという欲求を持っている。
これは、特に現実的に意味があるわけではない、全く競争の場を持たない二人がいたとして、100メートルを10秒で走る者がいたとしよう、だが12秒で走る人間が別にいたからといって両者にとってその差異は特に問題にならない話だ。
しかし、現実にはこの関係の無い両者を結びつけて優劣を語る方向に向きやすい。
何故だろうか?
あるとすれば、優位に経ちたいという欲求が彼らを走らせるのだ。場合によっては新しい競技を創設してでも、である。
それはなにかで優位であることが、現実的に優位であるとか、競争関係にあるナシとに関わらず重要であるということを示している。
これは優劣ではなく差異ゲームである、そうだろう、現実的に優位か否かに関わらず、競争も無いのに優位であるという状況が成立するなら、それは差異ゲームだといってよい。


もし優劣があるとして、絶対的な基準があるとすれば。
この日本の世の中は資本主義であることがあげられる、何故か?現実的に金がなくては食うものに困るからである。
金がなくては生きていけないからである。物資は有限だからである。
もう一つは、健康であるかどうかである、一日満足に活動できなければ話にならない。
だから、競争があり、優劣があるとすれば、金を生むのか、そうで無いのか、健康か、そうでないかというゲームである。
年齢、これは実は大きな違いがあるのだが現実には競技として問題にされない、何故なら皆老いるからである。
老人を社会から排斥しろという声は必ず若い人間から挙げられる、何故なら彼らは老いることにまだ具体的な想像力を持てないからである。


モテもそうだという方がおられるかもしれない、たしかに、モテ非モテは市場である。資本主義社会と肉体的健康さとの密接な相関関係を描いている。若い時代、時間的余裕がある間なら、純粋にレジャーである面もあるが、実際は市場である。だから、モテ非モテという競技があるのではなく、資本ゲームにくっついているおまけのようなものだ。ホームレスの既婚率を見ればわかる。


まあ、蛇足だ、要は優越感ゲームなるものがあったとして、それが具現化するのは本質的に金を生むそういう状況が成立するかどうかということであり、それ以外の優越感ゲームっぽい、メタ優越感ゲームであり、は児戯であり、娯楽であり。
なにがなんでもだれかより上に立ちたいという欲求から来る、自意識過剰な自己演出であるということだ。
おいら値段高いかもしれないよ、という演出だ。


そしてインターネットの「めっためた」な世界は現在はまだ、そんなに金を持たない若い世代が多いのである、つまりみんなびんぼなのである。(もしかしたらみんなして思春期やっているのかもしれないが。「なにかからの卒業」という言葉が好きな人はネットから卒業するのもいいかもしれない。)
若い世代はしかたなしに、差異ゲームに甘んじるしかないのである。
現在のネットの世界はどこを見ても差異ゲームである。
やっていることが差異ゲームであるなら、現実に存在する優劣ゲームではボロ負けであっても、少なくとも児戯の範疇であれ、一定の優越感だけは得ることが出来るからだ。
差異ゲームは違いを見つけたものが優位に立てる、そういう嗅覚が鋭いものが優位に立てるのだ。


女を抱いた回数とか、そういう意味が無い競争が現実に存在するように見せかける人間がいるならなら、それは差異ゲームで優れた自分を脚色したいのか、或いは、その新しい競技で儲けようとしているかどちらかである。(大抵は後者である。)


まあ、私は別に資本が人間の全てだと考えているわけではない、他にも、人気とか、名声とか自己実現とか、喋り方とか、書き方とか、髪型とかそういう違いもあるだろう。
だが、なんの関係性の見出せない無い両者が自身の利益の枠外で優劣を競うなら両者の資本獲得能力しかないのではないかと思う。
誰かがどこかでとんでもなくいい女を抱いていたとして、私の生活が困るわけでは無い。
だが、誰かがどこかで世界の物資を大量にかき集めていれば私の生活は困る。
だが、んなことは言葉でどうにかなるものでもなし、語ってどうにかなるかといえばはっきり無い。


ということで、やっぱり優越感ゲームというのは具体的に言葉にすると「馬鹿らしい、」ということである。


真剣なのは何とかして儲けようとしている人間であろう。


注記:特定の個人、或いは団体について書いたものではありません、あしからず。