格差社会とがんばるということ。

「上流階級はがんばっているから上流階級で、そうでないということはがんばりが足りないということである。」
このロジックはわかりやすいし、言いやすい。
このネット環境と言うのも上流階級のツールの一つであるので、これを見ているあなたも漏れなく上流階級であるのだからややこしいことこの上ないのだが。
これは建前、と言うより言い訳で。
がんばってもどうにもならない人をがんばりが足りないという理由で切り捨てる常套句でもある。


昔からある議論で、納税額と投票権は何故比例しないのか?と言う問いがあるのだが。
これはまたややこしいところは置いといて、人間は一人で生きているわけではないと言える。
省見てみると笑っちゃうくらい馬鹿馬鹿しくて薄ら寒い文章であるが。
この社会と言うのはあなたがあなたでなかったらという留保を常に置いている、いや、俺は俺だと言うかもしれない。俺で無い俺なんていうものはたしかに存在しない。
あなたはあなたである、だが同時にあなた以外の人間が他の誰かであったかもしれないと言う疑問を持たないだろうか。
私は私だが他人はたまたま彼(彼女)であって他の人間が彼(彼女)であったかもしれない、という想像は容易に出来る。
そう考えると他者(社会)にとってみれば自分はたまたま自分であるだけで別の人間でもかまわないという答えにたどり着く。
人生とは無限の選択だが振り返ってみるとそこは一直線でしかなくそれ以外の可能性がどこに行ったのかと言えば他の誰かが負っていると考えるのが自然である。
あなたがあなたでなかった時、もしかしたら、という留保をこの社会は含んでいる。
それが人は一人で生きているわけではないという教訓でもある。


本題に戻せば。
建前はいろいろあるが。
この世界は誰も彼もががんばれが何とかなるというような優しい世界で無いのも事実である。
あなたが何らかの理由でがんばれない人生だった時、あなたが何らかの理由でしかるべき時にがんばるチャンスを与えられなかった場合、もしくは放棄して取り返しがつかなくなってしまった場合。
いろんなあなたを含みつつ社会は動いている。
こういうことを突き詰めると原罪とかそういう話になるのかもしれないが。
「パージ」と言うか「排除」と言うのはそれこそ過去幾度となく繰り返されてきた歴史の中で、それこそきりが無いほど繰り返されてきた、興味がある人は優生政策でググッて見るといろいろとある。
だが、結局無限の可能性を抱えた方が良い、と言うか「まし」ってことになったから我々はこの国でネットなんかやっているのだ。
どのような社会を作るかはそれぞれだしそれ相応の格差もあるだろう、というか格差が無い時代などなかった。


だが、パージの歴史を繰り返すというのはそれでいいのだろうか?それこそ底辺を含みつつ維持出来るからこそ我々はネットなどやっているのではないのか?
私が飢えていないのはたまたま今までは飢えない人生に当たったと言うことだけである。
ならば私が飢える可能性を少しでも減らす、輪廻と言うわけでも無いが人生が一度きりだから他者を踏みつけてよいなんてのは社会全体として不利益なのではないのか?
こういうのは社会が無限の可能性を含んでいるから正論として言えるのだが。


それこそ命やモラルを云々、と語るならなおさら「私」が「社会」に切り捨てられる可能性を少しでも減らすのが我々のやるべきことでもあると思うのだ。


誰も飢えてないから底辺が無いというのは誤りである、何故ならそれは相対的なものであるから。ちょっと想像すればおおよそ分かりそうなものである。
人生にはいろいろあるが究極的には生まれる前に死んだ人間より不幸な人間はいない、名前も無い、不幸合戦で比べるのは無意味だ。
だからと言うか、人を救うと言うことに意味があったりするのは不幸を知るからだろう。
他人は自分でなかった自分である、そこには幸福や不幸の可能性がある、だから我々は他人を助ける。


社会に出ているのならなおさら運がなかった人に出会うことが多いと思う。
で、その時に「あいつじゃなかった良かった」と思うか、「もしあいつだったら」と思うかその微妙なラインが格差社会と言う言葉に含まれていると思うのだが。
私でない「あの人が不幸」であることを喜ぶという感情もあるから、余計難しい。